なるほど。望まない自分を大切にしているんだね。
これまでにも似たようなことを書いた気がするが、それでも書いておく。
自分が如何に「望まない要素」を、大切に抱えて生きているかを実感している。
確かに、自分の存在への罪悪感のようなものは減った。これは今まで私がかき集めてきた情報と経験とが結びついた結果だと思う。やったね。
しかし、望まない要素を持つ自分に慣れ過ぎて、受け入れてしまっている。それだけじゃなく、そんな自分の視点が当たり前になっている。
本心では、望む自分になりたいって思っているのに
「自分の人生は“これ”だから」
「望む自分になるには、現実問題が山積み」
「どうせなれない」
「今からじゃ間に合わない」
「この年では無理」
「面倒だ」
「変わったら大変そう」
「変わるのが怖い」
「今の環境を失いたくない」
・・・
望まない自分でいる理由を、ちゃんと残しているのさ。
実際、羨ましいと思う存在を見かけると、
「あの人がこうなれるのは、経歴があるからね」
「見た目が良いから当然でしょ」
「若いから」
「お金あるんだろうし」
「周りに恵まれているんだろう」
そんな言葉が浮かんでは
「私には経歴がないしな」
「見た目も良くないし」
「若くもないし」
「お金もない」
「コネもないしなあ…」
などと、自分の環境を供述しており。
ない部分ばかりに注目すると、疲労感が芽生える。絶望感が生まれる。行き詰っている感覚が強くなる。現実的な課題が多いことにうんざりする。
結果、同じ生活を送ってしまう。
結果、望まない自分でいることが、更に強化される。
【何かがない自分でも、望む自分になる!】という考えではダメなのだろうか。
経歴・見た目・年齢・お金・人脈…何かがある他人が望む自分になっていて、何かがない自分は望む自分になれない。それは、誰が決めたのだろうか。他でもない、自分自身だよね。そう決めてしまったのは。
何かがある自分になってから、望む自分の人生をスタートさせようと考えていると、何かがないまま死んじゃうかもしれないよ。死にそうになって、その時に焦ってスタートする?できる?
だったら、何かがない自分でも、或いは全部がない自分でも、望む自分になれるってことを、証明しようよ。お互い。「このままの自分でもいい」って、本心で言えないならさ。
改めて、本当に望まない自分でいたいのか自分に聞いてみる。
答えは――
_/_/_/_/_/_/_/
視点の話でした。
読み返すとほんのりヤベえなって思わなくもないんすけど、視点が変わればその後が変わるって流れは自分でよくわかっているので。
コロナ禍で、変わるための行動ができなかったりする。行動範囲も狭くなる。だけど、視点は影響を受けません。今からでも変えられる。
あいまいなようだけど、普段のちょっとした言葉やクセで、自分の視点って見えてくる。
もし、望まない自分の視点が日常になっていたら、修正しよう!
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