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ママとパパが5キロずつ痩せたのは、5歳息子のおかげでした。

先日ふと思い立って、ホコリでうっすらと覆われている体重計に乗ったとき、正直びっくりした。

5キロちょっと、体重が減っていたのだ。

ダイエットしていたわけではない。




1年前、私の体型は163センチ・約60キロ。

「太ってるね」とも「やせているね」とも言われない、ぽっちゃり体型。別に困っていなかったので、痩せたいという気持ちはなかった。

ほぼ専業主婦の期間を終え、仕事をはじめて数か月したとき、ふと体重計に乗ると2~3キロ減っていた。体を動かす量が増えると、そりゃ使うエネルギーが増えるもんね、と納得の数字だった。



それから半年たって。

どうしてまた5キロも減っているんだろう。

この半年間、何があったっけ?





頭の中でぐるぐると「体重が減った理由」を探してみると、息子の顔がポンッと浮かんでくる。

あ、息子のせいだな。
いや、”おかげ”というべきか・・・

そんな複雑な気持ちが湧いてきた。






1年前なのか、半年前なのか、はっきりしたことはわからないけれど、少しずつ少しずつ息子が「お肉」を嫌がるようになっていった。

唐揚げやトンカツなど「揚げているお肉」は大丈夫だけれど、煮物に入っている鶏肉とか、焼きそばや炒め物に入っている豚肉などなど、"揚げていないお肉"を口に入れると「まずい・・・気持ち悪い・・・」といって吐き出してしまうようになった。


ついには、好んで食べていたソーセージさえも、いつのまにか嫌がるようになっていった。


”みんな大好きハンバーグ”も、吐き出しはしないけれど、あまり好きではなさそうだ。そもそも玉ねぎが入っていると食べないので、わが家のハンバーグは肉100パーセントになっていった。でも、大人的には肉100パーセントのハンバーグはなんだか重たいしイマイチで、徐々に食卓に並ぶ頻度が減っていった。



息子がお肉を食べなくなりはじめた頃は、"息子用のおかず"を準備したりしていたけれど。

それも面倒になってきて、「家族全員が食べられるおかず」を目指して、わが家の夜ごはんのレパートリーを再構成している途中だ。


私も父ちゃんも「肉好き」だったので、数年前までのたんぱく質の割合としては「肉8、魚1、卵1」くらいの割合だったと思う。


現在のわが家のたんぱく質の割合は、

「卵3、豆腐3、肉2、魚1、練り物1」

という感じになっている。


全体的にあっさりとした印象のおかずたち。


私と父ちゃんの体重がいつのまにか減っていった理由は、きっとそれだな、と思った。







「まずそう・・・」


夜ごはんができあがってテーブルに並べると、息子がそうつぶやく。



これもダメになったか・・・


今まで普通に食べてくれていたレパートリーがどんどんダメになっていく。食べられなくなっていく。その時期が1番つらかった。


「前は食べてたよ?とりあえず、一口だけでも食べてみて、本当に無理やったらやめときな。」


すごく嫌そうな顔で、一口よりも小さい一口を口に運ぶ息子。

案の定、おぇぇと吐き出して「やっぱり無理やった」と苦しそうな顔で言う。




「今日も代わりに納豆たべる?」


私がそう言うと、パァ!とうれしそうな顔になる。

納豆様は心強い味方だ。ごはんと、みそ汁と、ノリと、納豆さえ食べられていれば、とりあえず栄養的には大丈夫!と自分自身を励ます日々が続いた。




食べられていたものを食べられなくなる。

それは息子のわがままなのではなくて、なにか意味があるような気がした。


たとえば、夏には麦茶が異様においしいのに、冬にはおいしいと感じなくなるように。麦茶は体を冷やしてしまうから、冬の体には必要ない。そのことを体は「おいしいと感じるか」「おいしくないと感じるか」を通して、教えてくれているんだと私は感じている。

それと同じようなことが、息子の体の中で起こっているのかもしれない。

大人以上に、子供は体の声を繊細にキャッチできるだろうから、息子が嫌だと感じるその感覚を信じてあげたいと思っていた。


それ以上に、「お肉は体に絶対必要なのか」という疑問も頭によぎる。ベジタリアンの人たちだって世界的にはたくさんいる。お肉が好きで食べているのならそれはそれでいいと思うけれど、もし体に絶対必要ではない上に無理やり食べているのなら、命をいただいている動物たちにも申し訳ない。


私自身もヨガをしていたとき、"お肉を食べない"ということを何度か試したことがある。

お肉を食べすぎると、体が重たくなるんだ。眠たくなるんだ。負担がかかっているんだ。ほどほどに食べた方がいいんだな。

当時の私は本当にお肉が大好きで、お肉をガツガツとほおばることが幸せだったけれど、自分の体を通してそのことに気づいた。



消化する力や、足りてない栄養や、運動量など、だれ一人同じ体の人なんていない。だから、お肉が大丈夫な人もいるだろうけれど、息子がお肉を食べたがらないのであれば、息子にとって今はお肉が必要ないということなのかもしれない。子供はそこまで考えているわけではないと思うけれど、なんとなく食べたくないということは、それを消化する力を持っていなかったり、必要のない栄養だったり、何かしら自分の体にとって負担になるものだということを「なんとなく」察知しているような気もした。




食べられるものを増やす。

それを大切にしている家庭もあると思うし、何でも食べられた方がそりゃ生きやすいし、便利だ。

でも、その無理やりがんばって食べたものたちが、もしも息子の体の負担になってしまうのであれば。

「おいしくない!」というセンサーを通して、必死でそのことを伝えてくれている息子の体に、申し訳ないなぁとも思うのだ。







平日はだいたい私と息子2人きりで、夜ごはんを食べることが多いので、そんな感じの対応と、そんな感じの考え方で乗り切っていたけれど、休日は父ちゃんも一緒にごはんを食べる。



「母ちゃんがせっかく作ってくれたご飯、ちゃんと食べえや。食べる前に"まずそう"なんて言ったら、作ってくれた人に失礼やで。」


父ちゃんの考え方はそんな感じで、私の作ったごはんをなんとか息子に食べさせようとした。

食べさそうとする父ちゃん。
どうしても食べられない息子。

そして、だいたい険悪なムードになってしまう。


「そんな怒らないでよ。こんな雰囲気になっちゃったら、食べられるものも食べられなくなっちゃうわ。」

「もよ、甘すぎるんちゃう?そんなんしてたら、いつまでたっても食べられるようにならへんやん。それにごはんを粗末にするのだけは、俺耐えられへん。」


家族全員で、どんよりモード。





この状態はよろしくない。私と父ちゃんの考えをすり合わせておかないといけないなと思って、父ちゃんと2人のときに、そのことについて話した。




「うちはそんな感じで考えているけど、父ちゃんの考え方も納得できるし、正しいと思う。家でならともかく、誰かが一生懸命作ってくれたごはんは何であろうと感謝して食べた方がいいと思う。ごはんを食べられることを"ありがたい"と思う心も大切やと思う。だから、正直どうしたらいいかわからないんよね。」


「俺も、もよの考え方も納得できた。でもごはんの時のあの感じ、どうしてもイライラしちゃうんだよね。」


「うん。うちも、そんな風に考えててもイライラすることはある。せっかく作ったのに!ってやっぱり思うしね。」




そんな感じで、私の考え方を父ちゃんは理解し、父ちゃんの考え方を私は理解した。でも、どっちの考え方にも一理あって、どっちかを選ぶということはできなかった。





{(私の考え方)+(父ちゃんの考え方)}÷2



そんなことができればいいのだけれど、現実は数学のようにスッキリパッキリとうまくはいかない。でも、お互いの考え方を知ることで、以前のように険悪なムードになることは減って、その時々でだましだまし対応していた。







「家ではそんな感じなんです。給食、けっこう残しますか?」


幼稚園の個人懇談のときに先生に聞くと、意外な答えが返ってきた。


「たしかに食べるのはゆっくりだし、嫌そうにしているものもあるけど、だいたいは全部食べていますよ。」


家での息子の様子とのギャップに、驚いた。嫌なものはオエェェと吐き出してしまうから、嫌いなものは絶対に食べられないんだと思っていたけれど、がんばれば吐かずに食べられるのか!それなら家でもそうしてくれ!

そう思った。





その晩、息子は晩ごはんを目の前に、ため息をついていた。それを見たとき、今日幼稚園の先生が言っていたことを話してみた。


「りんりんさ、幼稚園では給食残さず食べてるんだって?先生が言ってたよ。それやったらさ、家でも食べられるんちゃう?」



「ぼく、幼稚園ではめっちゃがんばってるからさ、家ではがんばりたくない。」



息子のその言葉を聞いたとき、ハッとした。その言葉に、1番大切なことが隠されているような気がした。







「幼稚園でも家でもがんばってたら、疲れちゃうもんね。ずっとはがんばれないもんね。」


私は息子にそう伝えてから、いつもより潔く納豆を渡した。ニコニコと、パクパクと、納豆と白ご飯とノリとみそ汁をほおばる息子を見ていると、やっぱりこれで大丈夫だと思えた。





家は戻る場所だから。
家は休む場所だから。


家では好きなものをニコニコと、

おいしいな、楽しいな、と思いながら
食べることが、

栄養以上に大切だな、とその瞬間に感じた。




それに、まだ5歳の息子。これからどんどんと味覚も変わっていくだろう。消化する力も強くなっていくだろう。成長するにつれて、がんばらなくても食べられるものだって、きっと増えていく。


とりあえず今は、幼稚園ではおいしくないものもがんばって食べて、家では無理なく食べられるものを食べていればいいや。



それなら、

{(私の考え方)+(父ちゃんの考え方)}÷2

に限りなく近づく。




そんな感じで、"息子がお肉を食べなくなった問題"に対する自分なりのふんわりとした答えを、見つけることができた。







そんなある日、父ちゃんがビアードパパのシュークリームを買ってきてくれた。


「わーい!!!やったー!!」


テンション爆上がりの息子。私もビアードパパのシュークリームが大好きだ。



カスタードシューを3人でムシャムシャと食べた。至福のときだ。



「もうお腹いっぱい。もういらない。」


息子がそう言ったので、ふと息子の手元をみると、もともとの大きさの5分の1くらいの、ごくわずかなシュークリームが残っていた。



大好きなんだったら、そのくらい食べ切ってしまえばいいのに、と思ったけれど。



「わーい♪んじゃ母ちゃんもらうね♪」


そう言って、息子がちょっぴり残したシュークリームをムシャムシャと食べた。




私の脳みそは、

「多めに食べれてラッキー♪おいしい!幸せ!」

と、確かに感じているけれど


私の体は、

「もうお腹いっぱい。もう砂糖はたくさん。」

と、警報を鳴らしているような気がした。





息子はちゃんと脳みそを満足させつつも、
体の声も最後の最後で聞いてあげてエライな。

私はついつい脳みその満足を優先させて、
体の声を無視してしまうことも多いもんな。

これが、私が太っていた原因だよね。



息子の残した分までたいらげてから、
トホホと反省した。






食べ物は、体を維持するために必要なものだれど、それだけではないような気がする。


"体"が求めている食べ物と
"脳みそ"が求めている食べ物の
バランスをとりながら、


食べ物と付き合っていけたらいいなと思う。





そんなことを考えるきっかけをくれたのは
息子だったし、


家でのごはんを強制的に見直すことになったのも息子のおかげだ。



結果的に、毎日家で食べるごはんは「体に優しいごはん」になった。


"体の求める食べ物"の量と
"脳みその求める食べ物"の量のバランスが
強制的に整ったから


私と父ちゃんは
自動的に適正体重に戻ったのだ。




家では、体の声を大切に。
外では、脳みその声も大切にしてあげて、

時には刺激的なものを食べるのも楽しい。

時には体に負担になりやすいものだって食べたらいい。


そのくらいのバランスが
体にも心にもちょうどいいんだよ。

ちょうど今くらいの感じがいいよ。




私と父ちゃんの体重が
そう伝えてくれているような気がした。






あいかわらず
今日も息子に育ててもらっている。

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