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その"ネガティブ"は、きっとママの印。

私は"妄想"する時間が好きだ。

日常生活のいろんな場面ですぐに妄想がふくらんで、1人で勝手にニヤリと笑う。頭の中では何をしたっていいし、だれにも迷惑をかけない。頭の中でいろんな妄想をする時間は、私にとってとても楽しい時間だった。


でも、ママになってからの私の妄想は、ちっとも楽しくないものになってしまった。基本的にネガティブだ。特に「息子」がからむ妄想はヒドイ。


私の頭の中で、息子はすぐに最悪の事態に陥ってしまう。



たとえば、

私がキッチンに立って、包丁でトマトを切っている。その横で私の足にピッタリくっつきながら息子がペチャクチャしゃべっている。

そんなとき、ふと妄想がふくらんでいく。

うっかり手がすべってしまって、包丁が私の手から離れて下に落ちてしまう。その包丁がたまたま息子の胸にグサッと刺さってしまって、息子がドサッと倒れ込む。「母ちゃん・・・」と何か言おうとする息子の目がだんだん閉じていく。いそいで救急車を呼んだけれど、もう心臓は2度と動かなかった。

最悪最低の事態だ。




たとえば、

私はマンションの8階に住んでいる。マンションのすぐ下にある公園から友達の笑い声が聞こえてくるとき、息子はベランダに出て友達の姿を見たがる。私は息子を抱っこして、息子はベランダの柵越しに公園をのぞきこむ。「おーい!〇〇くーん!」と大声で叫ぶ息子。

そんなとき、ふと妄想はふくらんでいく。

息子がさらに深く公園をのぞきこんでしまって、うっかりバランスをくずしてしまう。とっさのことで、私は息子の体の重みを支えきれず、息子の体は私の両手からスルリとすり抜けてしまう。8階から真っ逆さまに落ちていく息子。ドンッ!と地上に叩きつけられる息子の体。エレベーターにも乗らず階段を駆け下りて、息子のそばにかけつける私。血だらけで倒れる息子の胸に耳を近づけてみると、息をしていない。


最悪最低の事態だ。



たとえば、

熱があるけれど、別に元気な息子。夜の9時になって、私と息子はいつも通り1つの布団にもぐりこみ、おしゃべりをしたりギューしたりしている。

そんなとき、ふと妄想はふくらんでいく。

このままいつのまにか寝てしまっていて、私がハッと目を覚ますと朝の5時だった。ふと息子の方に目をやると、なにか違和感を感じる。息子のおでこに手を当てると、ゾッとするくらいに冷たい。もう息をしていない。息が止まって何時間たっているのだろうか。さっきまでまるで湯たんぽみたいに温かい息子とぴったりくっついて、その温かさを感じながらおしゃべりしていたのに。


最悪最低な事態だ。




なんてネガティブな妄想たち。

もちろんそうなる可能性はゼロではないのだけれど。

もし私の頭の中の映像を息子が見られるとしたら、気持ちのいいものではないだろう。

ごめんよ、息子。




こんな妄想を日々ふくらませているのは、私だけなのか。それともママになると誰しもが、大なり小なりはあれど、子供を守るための武器として、「必殺ネガティブ妄想」を授けられるものなのだろうか。


最悪な妄想がふくらんでいくことで、たとえば、包丁を強くにぎりなおしたり、「あぶないから今はあっちで遊んでおいで」と息子に伝えたりすることができる。ベランダの柵から体を乗り出している息子に「落ちたら大変だから気をつけて!」と注意することもできるし、まだしばらく起きている旦那さんに「寝る前に息子の様子を見てあげてくれる?」と頼むことだってできる。


最悪最低な事態を頭で想定しておくことで、「こんなはずじゃなかった」という事態を未然に防げる場合もあるかもしれない。



そう考えると、この超ネガティブ妄想も悪いことばかりではなさそうだし、必要なのかも、と思えてくる。





「危ないからやめとき!」
「そんなことしたら〇〇になっちゃうで!」
「〇〇しといた方がいいんちゃう?」
「〇〇した?〇〇持った?」


母は、いつも私や弟にそんな声をかけた。そんな母のことを「世話焼き」だとか「心配性」だとかって思っていた。


「そんなこと言われなくてもわかってる!」
「大丈夫やって!」


ちょっとイラッとしてそう答えることもあった。


でも、子供の私が想像もできないくらいに、きっと母の頭の中ではいつも「最悪の事態」が繰り広げられていて、そうなってしまう可能性を限りなくゼロに近づけるために、せっせと先回りしていたのかもしれないなってふと思った。



今の私も、それと似たことを息子にしている時がある。


本当に危ないこと以外は、自由にさせてあげよう。息子が失敗したり、つらい思いをできるだけしないように、私が息子の前を歩いてその壁を壊してあげるんじゃなくて、「私の息子は壁を壊す力を持っているから大丈夫!」と信じることに徹しよう。


そんなことを強く誓っているのに、だ。



理想と現実は、いつも一致しないよなぁ。気持ちと行動がチグハグで、ほんとイヤになっちゃうよなぁ。

子育てをしているといつもそう思う。





「おまえも母になればわかるよ。」

よくドラマのセリフで使われそうな言葉だけれど。

自分が自分じゃないみたいにネガティブな妄想が湧いてくるようになってしまった私は、母ももしかしたらそうだったのかもしれないなとふと気づいた。


私も母もそうならば、きっとその"ネガティブ"は必要なものなんだとも気づいた。



私がどういう人で、どんな性質があって、どんな考え方をする人で・・・というようなものを超えて、「動物」として自分の股から生まれてきた命を守るための"本能"のようなもの。ママになるとそのスイッチがカチッと入って、そのスイッチはママである限り、切ることはできないのかもしれない。


そうであるなら、仕方がない。


潔く私も息子に「世話焼き」とか「心配性」とか思われて、そして息子も父になったらわが子に「世話焼き」とか「心配性」とか思われて。


そうやって命をつないでこられたのは、最悪最低な事態を想定する、その"ネガティブ"があったからなんだと今思う。



いつも心の底から、"安心"しているお母さんなんてきっといない。

頭の中はだれにも見られないけれど、本当はいつも戦闘体制で、ネガティブな映像がくりひろげられていて、「子供の命を守る」という任務をほとんど無意識で全うしようとしている。



ネガティブな妄想をしてしまう自分が嫌だったけれど、そう考えてみると、私は立派にお母さんをしているじゃないか!と胸をはりたい気持ちになる。


湧いてくるものを止めることはできないから。"ネガティブ"を根本的に消そうとしなくなると、肩の力がゆるむ。



ママは、ネガティブな生き物なのだ。

ママは、ネガティブで当たり前なのだ。

それは、子供のことが大好きだから。

子供の命を守りたいから。

命をつないでいく役割があるから。



今度ネガティブな自分に落ち込みそうになったら、ネガティブを抱きしめながら、私は私にそう伝えてあげよう。




そして、もしこれを読んでくれている方がママじゃないにしても。

ネガティブな気持ちが湧いてきたとき、「私が守りたいものはなんだろう?」と自分に問いかけてみると、何か気づくことがあるのかもしれないなって思う。 


「私」を守りたかったり。

「大切な誰か」を守りたかったり。


ネガティブは気持ちのいいものではないけれど、いつも何かを守るために存在してくれている。

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