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残り香

冬らしい曇り空の冷え込んだ午後。
2車線のバス通りをクルマで走っていた。

突然、助手席の妻が「えっ、おじいちゃんが転がっている!」
僕はその意味がすぐには理解できず、冷静ではない妻の声色にとっさにクルマを歩道に乗り上げて停めた。
路肩に寄せるだけでは渋滞させてしまう道幅だから仕方ない、歩行者や自転車には迷惑だとわかっていたけど。
サイドブレーキをかけて振り返ると、50mぐらい後方の歩道で倒れている男性を見つけた。

クルマを降りて駆け寄ると、70代半ばの男性が、寝転がった姿勢のまま地面に散らばったカード類をカバンに仕舞おうとしていた。
「どうしました?」
僕は腰をかがめて覗き込むようにして話しかけた。
「いやいや、大丈夫だよ」
見ると、右の眉の上が割れていて顔半分に鮮血が広がっていた。
「大丈夫じゃないです!具合悪いですよね」
「大丈夫。大丈夫」  
「大丈夫じゃないですよ。血が」
拭き取ると血は止まっているようだが、傷口は痛々しい。恐らくしばらくこの姿勢でここにいたのだろう。
「お宅は近くですか?」
「そうそう」
弱弱しく自力で立ち上がろうとする男性の腕を支え、肩を抱えるようにすると。
やっぱり。
酒の匂い。
「お酒ですか?」
「うん、飲みすぎちゃってね」
聞けば、自宅はそこから2㎞ぐらいの団地だという。この酩酊状態のまま放っておくことはできないし、救急車という事態でもないからクルマで送ることにした。

「いい人がいるもんですね。すみませんねえ」
車内でそう繰り返し恐縮していた。
子供たちは社会人になって出ていき、夫婦2人暮らしなのだそうだ。
団地の2階に住む彼の棟の入口で停めた。
玄関まで行き家人に事情を話すかどうか、ちょっと迷ったけど止めた。
近所の人が彼に親しげに声をかけて来たし、もういいかなと思ってその場を離れた。

残り香が漂う車内で妻が言った。
「おじいちゃん、奥さんに言うかな」
「たぶん言わないよ」と僕。

若い人たちにはわからないかもしれない。誰でも年を取るし、お酒が救ってくれることもある。
永く連れ添った奥さんは、理解しているはず。
それでも彼は、酔っぱらって道に転がったこと、見ず知らずの人に送ってもらったことなど明かしたくないのだ。

おじいちゃんの匂い、酒の匂い。
懐かしいような、ちょっと寂しいような。

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