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久しぶりに、募金箱を抱えて募金を呼び掛けるという時間を持った

週末久しぶりに、募金箱を抱えて募金を呼び掛けるという時間を持った。
今年一番の寒さの夜。僕が所属する団体の災害復旧支援活動の一環だった。

親に促されてコインを入れてくれる小さな子、「頑張ってください」と囁きながら千円札を入れてくれる人。40歳位の男性は、連れに「見て見て」と注目させて1万円札を入れた。
わずか1時間ちょっとだったが、何人に「ありがとうございます」と言ったかな。

募金箱を抱え、大声で呼び掛けながらも、僕の頭の中は、僕に近づいて財布からお金を取り出して、箱の小さな口にお金を入れる一人ひとりの心を想像していた。

(ちょっとでも力になれれば)
(小銭を処分するような入れ方は失礼かな)
(千円は入れすぎかな)
(手がかじかんでうまく入らない)

表情をちらりと伺いながら、不謹慎だとは思わないけど心を覗き見するような気持ちだった。
そのコインがあれば温かい飲み物を買う足しになるものを、僕たちの活動を信じ、与えるという行為。
それは、金額の多少ではなく、多くの人の心が、現金というカタチに変わった。
募金箱は、その心を集めてどんどん重さを増していった。

災害復旧を助けたいという思いは確かに感じたし、その純粋な思いに身が引き締まったのは当然。他方穿(うが)った考えを正直に吐露すると、募金をした人自身も手にするものがあるなとも感じたのだった。

次の機会には、僕も募金箱にコインを入れる側になりたいとも思った。

「募金」の類語かな、「寄付」の歴史は宗教と切り離せない。仏教なら「托鉢」、イスラム教なら「喜捨」。キリスト教やユダヤ教の「寄付、献金」はシステム化されて長く継続されている。
寄付は、世界中にくまなく浸透している文化と言えるが、ここまでグローバル経済が熟してきたのにも関わらず、国民性というか、その感覚にはかなり差があるようだ。
たとえば、アメリカの年間の個人寄付額20兆円に対して日本は5000億円に満たないというから驚く。

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