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【viva不登校】「親が自分らしく生きる」ということ

子供から教えられたことは何か?

それは、

「親が自分らしく生きる」ということだ。

その考えに至るきっかけとなった日、私はその日を「息子が学帽を置いた日」と胸に刻んでいる。

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小学校5年生、夏休みも明け、ようやく夏休みモードが子どもも親も消えつつあった9月の上旬。何となく登校の準備をする息子の様子がおかしい。ランドセルの中身を何度も確認をしたり、トイレに入ってすぐに出てきたかと思えばまたトイレに向かう。明かにソワソワしていて落ち着きがない。

その時、息子の心の中に何が「渦巻いている」かは想像もしていなかったし、想像しようと耳を心を傾けようとはしなかった。

「ピンポーン」玄関のインターフォンが鳴る。いつも一緒に登校するAくんがやってきた。息子はまだ準備ができていない。

「Aくん、来たよ。早く準備していきなさい。」

息子の準備は進まない。この時には息子はトイレから出ることができなくなっていた。仕方がなく、

「Aくん、悪いけど、トイレがまだ終わらないみたいだから先に行ってくれるかな。ごめんね。」

そうAくんに告げて息子の元に戻る。トイレの扉越しの息子に、

「お腹の調子が悪いの?今日はお休みにする?」

トイレの扉の先から「うん」という声が聞こえてきた。そして程なく息子はトイレから出てきた。先程までの落ち着きのないソワソワした様子はなくいつもの息子の姿だ。

「熱もないようだから病院には行かず、今日は家でゆっくり休むか。」

息子にそう告げて、普段通り、学校はお休みして家で過ごした。その時は、想像もしえなかったが、この朝のソワソワ行動→お友達のAくんの迎えに出れない→学校を休む、を1週間繰り返すことになった。

流石にこれは何かおかしい。もしかして「不登校」、、、、、、

心の中にその一言がよぎった。そしてその時、私が心の中で思ったことは、

不登校 → 引きこもり → 社会からの断絶

であった。極めて短絡的ではあるが、そう思った。「不登校」に関する世の中で切り取られて報道される情報、自分が子供の時代の様々な経験が、

不登校 = 問題

という構図をはっきりとした輪郭で心の中に作り出していった。

今、振り返ると超絶に浅はかであるが、親としての自分は、

問題解決 = 学校へ行かせること

を至上命題としてしまった。そして、息子へ手を変え品を変え、働きかける。それが息子にプレッシャーを与え、更に息子を苦しめる。その様子に親も苦しむという悪循環が生まれる。ここではその日々を細かく記述することは割愛するが、自分なりに必死に勉強をした、学校にも毎日顔を出した、教育委員会にも足を運んだ、心療内科にも行った、心理カウンセリングも受けた、フリースクールにも通った、本当に様々なことを息子と共に試みた。

そんな日々を過ごす中で、HSC(HSP)の世界で著名な明橋大二先生の著書に触れる機会があった。そして、その中にあった一節に触れ、私の心の中にあった何かが一気に氷海していった。

「あなたは、学校に行っている子どもを愛しているのですか?」

そうだ、自分は学校に行っている息子を愛しているわけではない、息子、そのものを愛しているのだと。

そして、その視座に立った時「学校に行かせること」を目的にすり替えてしまっていた自分に気づくことができた。そして自分の中にあった間違った信念が露呈した。

息子のために親としてできることを全てしてあげなければいけない。自分の全てを犠牲にしても絶対に

この傲慢極まりない、親としてのエゴに気がついた時、息子の心の中の、言葉には息子ができない言葉が聞こえてきた。

自分のことは少しほっといて、大丈夫だから。

息子がそういったわけではない。ただ、息子はそう言いたかったのだ。

自分は大丈夫だから、パパも自分の時間、仕事、趣味、僕のために犠牲にしないでいいよ。パパらしくないよ。

振り返れば、息子が「不登校」という期間に入ってから、全ての時間を息子に捧げていた。好きなジムワークも封印し、夜の会食も控え、何より一番大好きであった仕事もセーブした。

そんな日々は全く「自分らしく」なかった。そしてその「自分らしく」ない時間と感覚は自分を蝕み、その満ち足りない心の隙間を、

今は息子のために、これは必要なことなんだ

と言い聞かせる。その結果、全てのエネルギーが息子に向かう。そしてそれが息子にプレッシャーとなってのしかかる。その息子の姿を見て、親である自分が自己犠牲という大義の元に、息子へのエネルギーをさらに大きく増幅させてしまう、という悪循環に陥っている。絵にすると、左側(黒字)のサイクルのようになる。

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子供から教えられたことは何か?

それは、

「親が自分らしく生きる」ということだ。

右側(赤字)のサイクルのように生きよう。

「親が自分らしく生きる」=自分の人生と子どもの人生を切り分けて考える、そのことで子供への働きかけ、意識も変わる(粗く表現すれば子供をそこまで気にしない)、そのことで子供は親のプレッシャーから開放され、自分らしくいることができる、そしてその姿は親の喜びとなり親もさらに自分らしく生きることができる。

全ての起点は「親」なのだ。少し乱暴に言えば、「親は自分の人生を思いき入り楽しめば良い」ということだ。そして、これは「不登校」というテーマに限らず、子育てにまつわる様々なテーマの解決につながると私は信じている。そしてもう一歩俯瞰をすれば、これは「家族」だけの話ではなく、会社で言えば「上司・部下」の関係でも同様だと感じている。

息子は小学校の卒業まで「教室」に足を踏み入れることはなかった。卒業式も別室で行った。その時の息子の様子は本当に誇らしかった。校長先生から力強く返事をして「卒業証書」を授与した。そして今春から地元の公立中学に元気よく通っている。今は卓球部に入り、日々を楽しく生きている。彼の中には「小学校での経験」から去来する想いが毎日あろう。それも親としては静観しつつ、私は私で「自分の人生を楽しむ」ようにしている。

そんな日々をこのnoteに書き留め、随分とフォローいただける方も増えた。このnoteを見ていただいたご縁でラジオ番組もやることになった。ご縁とは本当に不思議である。

また、このnoteの中であのプロサッカー選手の本田圭佑氏が運営している教育プラットフォーム「NowDo」のことを書かせていただいた時には、ご本人にツイート頂くという奇跡も起きた。

「親が自分らしく生きる」ことは多くの奇跡を生み出すのだと、再認識している。

その意味で、息子と過ごした「不登校」の期間は自分にとってギフトであったし、何より、これからまた同じことが起きても、親である自分が、そして息子が奇跡を起こすチャンスをもらった、と思えるであろう。

息子には心から「感謝」である。

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