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「もらったものは、誰のもの?」愛情表現の違いが争いのタネ

約束を守るのも私なりの愛情表現、と思って、約束通りのことを行動で示してみたところ、相手が私と同じように「約束を守る」わけではなかった場合に、盛大に混乱します。

私の場合は、それによって、かなしみ、はずかしさ、孤独、疎外感、、そういう感情が出てきます。体調悪いと、自己嫌悪、みたいなところにもいく。怒りや苛立ち、もあるかな。

でも、そもそも、相手がそれをどのように表現するかは、相手次第。私がそれをどう表現するかは、私次第なように。

相手と同じ「愛情表現」ではない、ということを知っておかないと、ここで「キーッ!」って相手を責めたり、「どうせ私は・・・」って自分を責めたり、妙な方向にずれていきがちなんだな。

あらゆる争い事は「愛情表現の違いだ」、と思ってみることは、一つ、争いを生まない手段として、ありだと思っています。

何が誤解につながったのか。どうしてこうなっているのか。私とあなたとの違いはどこにあるか。考えるプロセスをすっ飛ばして、テメー!というのは簡単だけど、簡単すぎるのはちょっと、今の世の中見ているとしんどいですよね。

すこし話はそれるかもだけど、先日、夫(中国人)から

「日本人て、もらったものをまた誰かにあげるのって、嫌なの?」

と質問されました。

ほお、確かに。私があげたとわかるものが、第三者に渡っていたら、ショックです。そうしてもいいけど、私にわからないように処理してほしい、という気持ちがあるね、と返答しました。

夫は、「へえ」と納得いったのかようわからん反応。中国の場合はどうなんだと聞き返すと、

「もらったものは俺のもの。どうしようと俺の勝手」

ということらしいです。

ほお。もらったものはおれのもの、言われてみればそのとおりだ。

もらったんだから、どう使うか、どうするかはその人次第で別に良いはずです。自分が好んであげておいて、相手にどう使うかの自由は許さない。どうして、手元にないそのモノの行方にまで、感情をゆさぶられてしまうのでしょうか。よく、別れた彼女に、自分があげたプレゼントを返せ、とか言ってくる男がいるらしいけど、あれも、日本的?

もらったものは大切に扱ってほしい、のは、そこに、もの以外の何かを乗せてますよね。しかし中国では、どこからどのようにそれが渡ってきたのか、その想像力は排除して、ものだけを扱うことのほうが優先される。

ここにも、愛情表現のちがいはひそんでいるなあと。ものだけを扱うことで、保ってきた中国的解釈、文化が、そこにはあるわけですから。


さらに話は逸れるかもですが、私は、できることならば、誰が読んでもわかるような文章づくりを心がけています(単純なので、そういうものしか書けないともいう)。

そうすると、何が前提になるかって、相手はこれについて「わからない」「伝わらない」ということになります。

どうせわかんないだろ、じゃないんです。わかって当たり前だろ、でもない。

私から、言葉を手渡すような感覚です。(お互い)わからないから、わかり合いたい、っていう感じなんです。

私の周りに争い事はありません、なんて、そんな清らかな世界には当然生きていませんが、「違うんだな」、「で、私はどういう方法を大切にしたいかな」というのを考える余裕が少しあるのは、わかりやすく書く練習をしてきたことが、土台にあるからかもしれません。

わかりやすさって、「もらったものは俺のもの」的に、低文脈に解釈していく先にももちろんあると思います。

でも実は、お互いのわかり合えないことと、分かり合えることをはっきりさせて、高文脈なコミュニケーションだったりもするんじゃないのかしらとも思います。

要するに、真逆だからっていちいち争うんじゃなくて、愛情表現の違いを乗り越えたいのよね、と、私は思っているんだと思います。途方もないことですが、そういうことに、面白みを感じている人生です。

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