私の「可能性」を見せてくれている
少し前の、朝日新聞日曜版だったでしょうか。
上野千鶴子さんが、認知症の家族の介護に悩む方からの相談に答えていらっしゃいました。
目に飛び込んできた、のは、私にも近しい課題があるからです。30秒もかからず読み終えられるコラムでしたが、深く心に響いてきました。
検索したらありました。この相談を読んで、改めて、認知症で辛いのは当事者だけではないのだと感じました。そして、上野さんの回答は、これ以上ないほどだと思いました。
上野さんは、相談者に一つの提案例を示す形で、お父さんにこう提案してみては、と伝えます。(ざっくり要約)
「おばあちゃんがこうなったということは、いずれお父さんもそうなる可能性が高い。その時に、私(相談者)が同じように当ってしまわないように学ぶ必要がある」
ーーいずれ、お父さんもそうなる可能性がある。
それはそのまま、孫世代である私にもつながる言葉です。
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私の近くにも、親が認知症を発症し、子供世代で面倒を見ているケースが2件あります。そのどちらも、親であるその人の行動が一貫せず、同じことを繰り返す毎日に、烈火の如く怒り、怒鳴りちらし、毎日のイライラを募らせています。
自分の親がそんなふうになってしまうことを、なかなか受け入れられない気持ちも、痛いほどわかります。真面目で責任感の強い人ほど、施設に入れてやりたいけどどこか申し訳ないと思ってしまうでしょうし、だったら力技でどうにかしてやりたいと思う瞬間だって、きっとあるに違いありません。
そして、きっと、そんなふうに思う自分自身のことを、誰よりも残念に、悲しく思っているはずなのです。
どうか自分を責めないでほしいですね。
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認知症になってしまって、例えばすぐ忘れてしまう、そこらじゅうでトイレをしてしまう、徘徊して行方不明になってしまう・・・当たり前の日常が送れない。
それは、本人のせいでしょうか。
それは、家族のせいでしょうか。
悪いのは、正しいのは、なんなんでしょう。
全く答えが見つかりません。
でも、介護に当たる人たちからみると、悪いのは何度言ってもわからない認知症を発症したその人、に簡単になってしまうようなのです。
そして、誰かに頼るということが、とてもとてもハードルの高いことに思えてしまうようなのです。
昭和時代の弊害だなと、ここは強く思います。我慢してなんぼの世界は、もう終わったよ。
上野さんのアドバイスが素敵だなと思ったのは、それを「彼ら」の問題で終わらせてはおらず、それは私の問題なのだとおっしゃっているところです。
そうは明確には言っていないかもだけど(汗)、私にはそう感じられ、また、少しだけ視点をずらすきっかけをくれている、と感じたのでした。
彼らが見せてくれているものが、未来の自分の姿であるとしたら。
症状を通して、自分の未来の可能性を見せてくれているとしたら。
想像してみたら、その人との間に、ほんのちょっとした距離が生まれる。あるいは自分から「取れる」ような気がしたのです。
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ちょっと遠くから見ている私が、「まともに相手にして、怒ったってしゃーないやないか」とスカして伝えたところで、なんの足しにもなりません。
家族なんだから、とか、他人に迷惑かけてはいけない、とかも、もう時代錯誤です。
だけど、私が当事者になるとき、あるいはその家族になるとき、というは案外、すぐそこの未来なのかもと思うのです。
今、そうなってしまっている彼らを通して、どんなサービスがあるのか調べたり、認知症のことをもっと学んだり、社会にはどんなサービスがあって何が物足りないのかを体験したり、
とにかくそんなふうに、なんでも自分に蓄積できる知恵として蓄えておき、いつか自分のためはもちろん、誰かに分かち合えたら、
認知症になったあの人やこの人のこと、きっと心からの笑顔で、ありがとね、って言えるような気がします。
この本、読んでます。「一つの世界」として捉えるって楽しいですね。
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