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旅の始まり、春と夏の境界線【マレーシア・クアラルンプール】

旅の始まりの地にマレーシアのクアラルンプールを選んだのは、まずひとつに訪れたことがないこと。そして時差があまりなく、女性ひとりでも安心して移動できるくらいの公共交通機関が発達していて、その上ある程度の都会であるということなどが挙げられた。英語が通じることや、直行便が出ていることもチケットをとる最終的な決断の後押しをしてくれたような気もする。

仕事をしながら、旅をする。
旅をしながら、仕事をする。

ということが、実際のところどういうことなのか、私にもまだよくわかっていなかった。

旅立ちの日は、2016年4月26日。最後までバタバタしていた。60リットルのスーツケースに荷物を詰め切ったのは羽田空港に向かう数時間前だったし、前日は夫への冷凍ご飯(せめてもの罪滅ぼしで30食ほどドライカレーやパスタソースを作っていった)を作りながらパスポート、eチケット、ミャンマーやインドのビザ、海外旅行傷害保険の確認や通貨の準備、国際キャッシュカードへのログインや、はたまた下着の枚数チェックみたいなことまで、とにかくワタワタしていた。

本当に旅立つのだ、ふぅ、よし、と視界が開ける想いがしたのは、羽田空港の搭乗口まで見送りに来てくれた夫の姿が遠くに消えて、独りになったときだった。

あれだけ海外へ行くのだもの!私は!! と豪語していた私も、さすがにこの時ばかりはセンチメンタルな感情が溢れてきた。しばらくあなたに会えないのね、日本には帰ってこないのね、と泣きそうになりながら、夢のさなかへ入っていく期待なのか寂しさなのか不安、後悔なのかわからずに、多少の涙が出そうになった。

……でも泣いてない。涙が出そうになっただけ。

出国するまでの数十分間を使って、できるだけ出国前に片付けておきたい仕事があった。海外へ行ったら、できないことも出てくる。たとえばセキュリティの関係でログインできないシステムや、ほかにはなんだろう。ちょっと明確には挙げられないんだけれども、とにかく何かをしていなければいけないんじゃないか、みたいな気持ちがあった。

マレーシアへ行くのは初めてだった。

もし、私がタイやシンガポール、または台湾などに行ったことがなければ、もしかしたらそれらの土地を旅の出発点に選んでいたかもしれない。

とにかく、すっと、旅に入っていきたかった。

それがなぜかと問われたらいろいろ理由は挙げられたのだけれど、今思えば理由はひとつ。私はきっと、とても不安だったのだ。

クアラルンプールに到着したのは、予定通り夜の20時を過ぎた頃だった。空港から電車で一本で到着するKLセントラル駅から、徒歩2分で着きそうな立地の、手頃なホテルをあらかじめ日本で予約しておいた。

百戦錬磨のバックパッカーたちなら、街を訪れてから宿を決めるという選択もしただろうが、バックパッカーのバの字も使えない風情の私には、そんなチャレンジングなことはできなかった。ましてや今日の到着は夜だ。いやぁ怖い。クアラルンプールでは、気にいるAirbnbの宿は見つけられなかった。

公共交通機関が発達しているから大丈夫だろう、とタカをくくっていた私は、KLセントラル駅の大きさと、出口が複数あること、意外に空港からの電車の出口が暗かったことにビビってしまった。ぎゅっとスーツケースの柄をにぎりながら、知らない店の看板や見慣れない肌の色、それに混じって「SUBWAY」という名の知っている店の名前があることを確認して少しほっとしたりしていた。

KLセントラル駅では、1度改札を間違えた。私は自他共に認める方向音痴だ。特に新宿駅や池袋駅、横浜駅みたいなダンジョン系ターミナル駅の改札については、東京暮らしが10年過ぎた今でもそんなにまだ得意じゃない。初めて訪れたクアラルンプールのそれなんて、言わずもがなだ。

それでも、私、超クアラルンプールのこと詳しいんで、みたいな顔をしなければ海外ではやっていけない。ような気がしていた。事実不安な顔をして周りをきょろきょろしたもんなら、東南アジアでは特にいろんなひとに声をかけられる。夜に余計なトラブルに遭いたくない。まるで友だちが駅近くで待ってくれているかのようなふるまいで歩く。まったくつまらない喜劇である。

改札の外に出ると、空はもう真っ暗だった。あとから振り返れば、スキップで30秒くらいで着きそうな駅裏のホテルまでの道のりも、そのときは多少の恐怖でぞくりとした。

知らない土地、知らない匂い、不安からか、余計に暗く見える空、少し怪しげな店が連なる舗装の甘い小道。

旅のはじまり、クアラルンプールの最初の夜。コンビニに行くまでも少し緊張するし、荷物は持って行った方がいいのか、ホテルに置いていった方がいいのか、その選択だけでいちいち迷う。

旅をしていることに身を浸して、家族との連絡、新しい土地での出会い、取材の仕方、仕事のやりとり。旅先でのふるまい、言葉の違い、寂しさのとの付き合い方、写真の保管方法。いろいろなことに慣れながら、やっと落ち着いて文章を書き始めるまでには、まだもう少し時間がかかることを、このときの私はまだ知らない。

8ヶ月間の旅の最初の一歩。無事ホテルに到着した後に見る空は、さっきよりも少し明るくなったような気がした。日本はまだ肌寒い4月の終わり、クアラルンプールは暑い夏の夜のことだった。


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