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なぜ物語は、スタートに戻るのか -『ついやってしまう体験のつくりかた』より

たとえば私が東京で暮らしていたとして、多くの人と同じように、コンクリートで固められた道を踏み、日々同じ場所へ通い、箱の中で「仕事」と呼ばれ、与えられた作業をこなしていたとして。

「そうではない場所」に憧れを抱いたとき、「どうしてこんなところに、居るのだろう」と、遠い「何処か」へ想いを馳せたくなる。

そして私は、旅に出る。長く、ながく、数年は帰ってこない世界の旅に。「今まではとは違う場所」を求めて、言うなれば冒険を重ね、国をいくつもまたいで、気軽にことばを交わしては、また船に乗って国境を越える。

越境。交流。そうやって私たちは、「まだ俺は本気出してない状態」から脱して、変わったような気持ちになって。戻ってきて、また違う自分になりたがる。

けれどいつか、私は気がつくのだ。「結局、元の場所に、戻ってきた」と。

「昔この手のひらに在ったものが、あの頃あんなに捨てたがっていた『ふつう』の日々が、愛しいのかもしれない」と。

それを、「じゃあ一緒じゃない?」と否定したい私もいた。「あんなに探索を重ねた旅は、発見は、胸のときめきは?」。

「無駄だったのかしら」、なんてつぶやきを、雨に流したくなってしまう。本当に、わからなくなっていた。「結局元に戻るなら、今までの日々って『やらなくてよかったこと』なんじゃない?」と思っていた。

その解決の糸口を、先日の雨の日、飛行機に乗り込んだその先の、雨の降らない機内で、読んで見つけた気がした。これは、その時の発見を書き留めたnoteだ、ということになる。

少し、引用してみたい。

なぜ物語はスタートに戻るのか。
天命を知り、決意して旅に出て、境界を越え、仲間と出会う。最大の試練に立ち向かい、変容・成長して、試練を達成する。ここまでは、なるほど英雄の旅という名にふさわしい流れだと感じますが……問題は最後です。「家に帰る」。英雄のふるまいにしては、ずいぶん庶民的でのほんとしているといいますか、あまり格好がつかない感もある結末です。

そしてもうちょっと、読んでみよう。本書を通じて、登場し続けた「ゲームの理想のモデル」としての『ラストオブアス』と『風ノ旅ビト』も、ゲームのエンディングでは同様の結末が描かれている、という部分。

ゲームのスタート地点に戻る、それが両ゲームに共通する物語の結末なんです。ラストオブアスでは、エリーを救う代わりに人類を救う手立てがなくなってしまいます。つらく厳しい旅の結果として、主人公ジョエルとエリーのふたりで旅に出る前の状況に戻ってしまうのです。(中略)風ノ旅ビトの場合も同様です。山頂で光の谷に飛び込んだ主人公は光の玉となり、スタート地点に舞い戻ります。(中略)なぜ物語は、スタート地点で終わらなければならないのか?

(大切な箇所なので、詳細は、できたら気になったら自分で読んだ方がいい、と私は思う。から、記述しすぎるのは避けたいけれど)

重要なのは「プレイヤー自身が、自分の成長に気づかなければ意味がないから」という箇所だ。

「今日の私たちは、昨日の私たちに比べて、成長しているはずだけれども、私たちはその成長を、果たして実感できているか?」物語の果てとして、主人公をスタート地点に戻す、というデザイン、は。

体験を通して、通り抜けて、試練をくぐった、変わったであろう私たちの、成長を。気がつかせる、もっと言えば比べさせるものなのだ、と。

わざわざスタート地点に戻し、物語を通り抜ける前の自分を思い出させ、ひいては体験を通り抜ける前後の自分を比べさせているのです。

なるほど。では、あれは。私の、私たちの人生にとって。

「じゃあ一緒じゃない?」と否定したい私もいた。「あんなに探索を重ねた旅は、発見は、胸のときめきは?」。「無駄だったのかしら」、なんてつぶやきを、雨に流したくなってしまう。本当に、わからなくなっていた。「結局元に戻るなら、今までの日々って『やらなくてよかったこと』なんじゃない?」

たしかに、同じ場所に立ってはいるけれど、これは螺旋。同じ景色が見えているようで、気づけば昔よりも視線は上がり。「のぼっている」改善、改良、「前に、進んでいる」と、考えて。

そうか、無駄ではなかったのか、戻ってきた、という私は、私たちは、以前の自分とはわずかに違い。その「異」を積み重ねて、明日を生きる。明日からも、生きてゆく。

なぜ物語は、スタートに戻るのか。それは、私たちが昨日とは違う私たちになっていると、同じ場所で確認をさせるため。

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