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10年ぶりの新作へのエッセイ ⑶LA

薄々気づいていたことがあった。

NYで暮らす中で、好きな音楽の幅も広がって、あ、これいいな、と調べてみると、LAのアーティストであることが多かった。

服も、昔からBOHO、ビーチカルチャーのボヘミアンがしっくりくる。
ロサンゼルス、という言葉が、あちこちから耳に目に入ってくる。

まあそれなら、と持ち前の旅人気質とフットワークの軽さを発揮して、ロスにちょっと旅に出てみた。

アイコニックな椰子と広いLAのビーチ


圧倒的にでっかい!
ニューヨークより怖い。
なんでだろう?車社会だからかな。

ゴウゴウと猛スピードで走る車を目にしながら圧倒されてしまう私。

それでも、またあの変な、ピン、が来てしまった。
アーティストビザもあと1年ほどしか残っていないし、行くなら今しかない。


車社会のLA


結果。


LAは、人生を変えてくれる場所となった。



今考えると、NYはジャズを主とする街だった。

LAは、POPS、R&B、ロック、オルタナ、映画音楽など、アメリカの音楽業界全体を牛耳る街。

そこで私が経験したことは、一言でいうと、歌への情熱に再び着火してもらえたことだ。



はじめに訪ねたのは、LAで鍵盤奏者として活動しながら、教会でディレクターを務める方だった。

ゴスペルに興味があった私は、誘っていただき二つ返事でOKして、すぐさまその小さな教会の、小さなクワイア(というか3〜4人のコーラスグループみたいな感じだったけど)に参加した。

LAのInglewoodにあるチャーチでのリハーサル風景



みんな本当に歌が上手かった。
そんな抜群に上手い子達と一緒に声を合わせるのは、興奮でしかなかった。夢中になって毎週歌っていた。

歌うって楽しい!

しかも、私ももっともっと歌が上手くなっていいのかも、と思った。
いいのかも、って表現が変なのだけど、本当にそういう気持ちだった。


LAではどこに行くにも車移動


もちろん私がしたいことは、自分の音楽を創り、それでみんなにエネルギーを届けることだ。それは変わらない。
だけど、私は本当に歌うことが好きだった!そのシンプルな事実に気づいた。


世の中で一番、歌が好きな私は、歌の技術を上げるためにする努力だったら、時間を忘れて熱中できた。

小さい頃、若い頃、なかなか思うように歌えなくて、でも夢中で好きなアーティストの真似をして、学んでいた。その感覚がだんだん戻ってきたのだった。

まだまだそうやって、どんどんうまくなるために夢中になっていいのかも。

そういえば、今まで、自分の歌に納得できたことなんて一回もなかったんだった。

プロだからって、これが私のスタイルだからって一つにとどまらないで、生涯生徒ですって感じで、歩み続けていいのかも。
そのほうがずっと私らしいや。

そんな風に思えるようになった。


強い日差しと乾いた空気が気持ちいいLA


そして、もう一つ、大きな出来事があった。


LAで好きなアーティストのライブに行くと、一人きりであることが多かったのだ。

つまり、作詞作曲して、歌って、演奏して、トラックも作って。みんなDIY。だからこそその人のカラーがものすごく出る。


日本にいると、あれこれできることは、昭和的には「器用貧乏」って言われていたり、なにか一つに秀でた職人であることが価値があることが多いと思う。

でもLAは逆で、あれこれできる人が普通。

(まあ職人タイプもいるけど、そういう人はもう、ありえないくらい飛び抜けてる、笑。)


私も、もしかして、あれこれやってもいいんじゃない?と、ここでまた一つ思い込みの枠が外れた。


なぜなら、orange pekoeでも、初期のトラックメイキングこそ一馬くんが担当していたが、私もがっつりプロデュースに参加していたからだ。

かなり細かく、「キックの音はもうちょい低い方がいいなー。」などど意見があった私は、その好みを、自らやるだけでは?と思い至ったのだ。

幸い、今や誰でもできるようなソフトが充実している時代になった。

それなら、私にももしかしてできるかも?



かくして、私はLAでビートメイキングのスクールに3ヶ月ほど週1で通い、基礎を教わって、タイムアップ。ビザが切れたので、日本へ帰国することになった。

LAで通ったクラスの風景


LAを去る直前に、左手の甲に、自分にしかわからないくらいの小さなタトゥーを入れた。素敵なヘアサロンのような、フェミニンで、すっきりとしたショップでお願いした。


日本では受け入れられにくいものとわかっていたが、どうしても入れたかった。


それは、幼い時に大好きだった図形で、小さい頃、自分に魔法が使えると信じていた私は、その図形の金色のキーホルダーを魔法の杖のように持ち歩いていた。


左手の甲には、20代の頃、人生で一番辛かったときにふいに作ってしまった小さな傷があった。

その傷を一辺として、その図形に変身させたのだ。


私は、このアメリカという、個人主義で、感情的で、問題だらけで、コントラストが激しく、でも同時に、革新的で、開放的で、見知らぬ人に優しく、ダイナミックなこの国が、私にもたらしてくれた変化を、この先日本に帰っても、ずっと忘れたくなかった。

忘れないために、過去の傷を私だけの「魔法の形」に変えたのだ。

マイクを持つときに、自分にだけ見える場所にあるその魔法の形。


魔法を、自分に取り戻すために。

LAの街角で


(つづく)

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