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文明の成熟から、文化の成熟時代へ

高三の長男。進路について色々悩んでいたけれど、結局大学受験をせず、どういう道に進めば、自分の実現したい世界に貢献できるかを考えると言う。

今週は共通試験の後で、家にほぼずっといるようだ。

学校から支給されてきた手帳に、延々と絵を描き続けている。
アニメの登場人物を2ページに1人ずつ描いていって、全てのページを埋めるんだそうだ。

側から見たら「まぁ呑気ねぇ」とでも罵りたくなる光景である。

やりたいときにやりたいことを

ところでうちでは、そういうことで子供を責めることは、まずない。

「やりたいときにやりたいことをしなさい」
「時計を見てご飯を食べるんじゃなく、お腹が減ったら食べるんだよ」

ということが、家庭の暗黙のルールみたいになっている。
絵を描きたいんなら、いいんじゃないのという具合だ。
(そのおかげで、学校では3人の子供たちはそれなりに苦労した)

そういう自分は、若い頃は常識に縛られていて、会社を辞めた途端、暇している自分を責めた。
昼間っから何もしないでぼーっとしてる自分を許せないと思ったのだ。

でも、そのときにふと思った。
「会社員っていう身分のときには、例えば営業に出かけて、途中に時間が空いたとしたら、堂々とぼーっとしたり、公園の猫に餌あげたりしてなかったっけ?(それも問題かもしれませんね汗)」

ぼーっとしてても、生きることをサボっているわけではない。
けれど無職で、もしくは所属するところや身分がない状態で、何もしないでいる自分に焦りを感じる。

時間はいつでも自分のものなのなんだし、どう過ごしても地球がすぐに爆発するわけでもない。

なのに、この焦りの気持ちっていったい何なんだ?

そういう20代の一時期を思い出すにつけ、長男の悠々とした没頭ぶりがちょっと羨ましかった。

ワーケーションという概念


昨日、偶然

変わり始めた大都市の求心力と遠心力のバランス

というタイトルの山口周さんのインタビュー記事を見つけた。

不透明な時代(VUCAっていうんだそうだ)にあって、新たな視座で活動している人に話を聞く、といった趣旨の記事だった。


リモートだ、オンラインだと、デジタル化が急速に進んだ感のあるコロナ禍だけど、実はインターネットの普及によって、もっと早い時期からリモートにできたはず。

「どこでもドア」ならぬ「どこでも脳」なんだから、東京に一極集中しなくたって、どこでも仕事ができたはずだ。

90年代初頭、インターネットなるものが出現した当初も、そんな話が出ていたのを思い出す。

森の中で、パソコン一台あれば仕事ができる。

そんな近未来にワクワクしたものだった。
そして、それから30年経ってやっとこさ、ある意味コロナのおかげで、実際にそれが普及し始めたような感がある。

「サラリーマン中心の世の中になり、オフィスに行って働くという今の働き方は、ここ100年の話」だと山口さんはいう。
それ以前はみんな家で家庭を背負いながら仕事をしていたはずだ。

20年くらい前、家をオフィスにするというSOHOが流行った。
私たち夫婦は、仲間と一緒に小さなアート系のNPOを立ち上げたばかりで、
SOHOだ最先端だと言って笑い合った記憶がある。

でも、まだその頃は家で仕事する=零細団体という見え方がほとんどで、
まわりからはオフィスを別にした方がいいなどと言われ、横浜のシェアオフィスの一角に事務所を持っていたこともある。

でもうちは子育て真っ最中だったので、名目上の事務所は横浜、実質は鎌倉の家の一角で仕事をし続けていた。

30年経ってようやく、堂々と家で仕事できる社会になったと思うし、昼間、仕事の合間に、スーパーに買い物に行くことにも気兼ねを感じなくなった。

日本は今「高原社会」

山口さんは「GDPが30年間以上ほとんど上がらなくても、それは社会が成熟してるから。日本は今『高原社会』に入っている」という。

なんでも、「文明的な成熟から文化的な成熟というシフトは、戦後間もない1940年代後半から1950年代にかけて、戦後の日本のグランドデザインとして盛んに使われていた言葉」だったそうだ。

そして、そのままの勢いで経済優先の方に突き進んだあげく、色々なことがコロナ禍で行き詰まるという現状に至っている。

今や、「当たり前の日常」がすっかり変わってしまった。

コミュニケーション不全はコロナ以前からではないか

人間は古来、コミュニケーションが突出しているということで、他の類人猿とは違う発展をしてきたらしい。

それがコロナで壊れた。
マスクをし、コミュニケーションは全て仕切りを挟み、接触を避け、距離を取らざるを得なくなった。

でも本当は、コロナになるずっと前から、仕切り板とかマスクなんかしてなくても、コミュニケーションは内側から崩れていたんじゃないだろうか。

人間は、行き過ぎた個人主義や経済優先、文明優先の中で、自ら社会に踊らされ、自らの手で、コミュニケーションが壊れるようなことをしてきたんじゃないだろうか。

だから、文化は損なわれ、大切な地域社会や家族のつながりも、徐々に失われて行った。

親孝行という徳目なきあと


いまや日本は、自殺大国になっている。

養老孟司先生がyoutubeで、こんなことをおっしゃっていた。

「個人主義の進んでいた西洋では宗教で自殺をしてはいけないと厳しく禁止してきた。日本のような禁止性のない社会で、個人主義が進むと『命は自分のもの』となってきて、自殺者が増える。それはごく当然な流れなのではないか。

だから、日本では昔は徳目として、親孝行しなさいと言った。それがいつのまにか、『親孝行しなさい』という親や年寄りがいなくなった。その結果、若年層の自殺が増えた。『逆縁』といって、親より先に死ぬのは最も親不孝ですから。」


長引くコロナ禍の今こそ、60年代に実現できなかった「文化の成熟」、美意識や文化の再構築が実現できる絶好のチャンスなのかもしれない。

長男を含むこれからの人たちは、まさにそのような文化再興の担い手になるだろう。旧来の常識にとらわれず、新しい世界を作っていって欲しい。

私たち大人ができることといえば、まずは邪魔をしないこと。
そして彼らの力を心底信じて、「大丈夫」と太鼓判を押し続けることではないだろうか。












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