幸せは自分で選んだものの先にある
幸せを感じるきっかけは人それぞれ。
美味しいものを食べたときや美しいものを見たとき。
推し活や旅行など、好きなことに没頭しているとき。
そのきっかけは無限にあるように思うが、以前の私は幸せを感じるということがほとんどなかった。
好きなことは何もできなかったし、私が見れる範囲の美しいものは、空くらいなものだった。
美味しいものを食べに行くことはごくまれにあったが、「そんなものを選んで」と言われないものの中から選ぶ必要があったため、本当はあれが食べたかったなとモヤモヤが残る始末。
旅行でも満足できるものはなく、我慢ばかりしていたから、旅行に興味はわかなかった。
自分の好きなものがわからないから、当然推せるものなど何もない。
こういうことを書くと、外食や旅行に連れて行ってもらえてるのだから、恵まれてるじゃないかと言われそうだ。
確かにそうかもしれない。
でも、論点はそこではない。
私は、私という存在が認められなかったから、何をしても幸せに感じなかったのだ。
自分の選びたいものを選ぶと、常に全否定される日々だった。
否定されることを恐れて、自分を守るために親に忖度することを選んだのは私なのだから、自分が悪いと思う人もいるかもしれない。
しかし、誰かに依存しなければ生きられない子どもの私には、他に選べる選択肢などないも同然だった。
さて、そんな過去を経て今はどうなってるかというと、幸せを感じられる私になっている。
なぜなら、否定されることがなくなったからだ。
私が一番幸せだと感じるとき。
それは、子どもたちがニコニコとご飯を食べる姿を見ているとき。
私の幸せはこんなに身近にあった。
そして、些細な日常の中にあった。
否定されない安心感の中にあった。
子どもはまだ未熟だ。
大人からすれば、そんなものを選んでと感じることもあるだろう。
しかし、未熟だからこそ、どちらも経験して、どちらが成功でどちらが失敗なのか、自分で判断したほうが良いように思う。
でないと、私のように、自分軸で物事を選ぶことができなくなる。
今、私は親になったわけだが、私も私の親のように、「そんなもの」と言ってしまうときがある。
言ってしまったときは、しまった!と思い、後から、こういう理由で反対したけど、自分で選びなさいと伝えるようにしている。
子どもたちは否定されたことを不満に思い、引きずることもあるが、自分の中で考えて納得できたなら、気持ちを切り替えてくれるように思う。
私に忖度していると感じることもあるが、そう感じたらしつこく、自分の好きな方を選びなさいと言うようにもしている。
さて、親に忖度して生きてきた私だが、果たして今、親の意見は正しかったと言えるのか。
その答えは『NO』である。
しかも、ことごとく、『NO』だと感じている。
私の幸せは『そんなもの』の中にあった。
子どもが正しくて、大人が間違っていることだってあるのだ。
人生は選択の連続である。
大人になっても失敗することはあるが、自分で選択することはいつだって正しいと私は思う。
自分で選択して選んだ人生の先に、幸せはあるのだと思う。
幸せを感じるきっかけは人それぞれ。
それは親子であっても変わらない。
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