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生きることに絶望した時、嵐の中で輝いて、儚い、揺蕩う、灯火が見える

リストカット。自傷行為。

生きていることは痛苦であり、罪である。どうしようもない感情や気持ちに襲われる。死にたい。

死にたい、ということは、生きていたい、の裏返しでもある。生きることに絶望した時、嵐の中で輝いて、儚い、揺蕩う、灯火が見える。命の輝き、それすらも見えなくなる時、自意識が減退した結果、世界そのものが見えてくる。

私が元来、リストカットはしてこなかった。精神的痛苦を創作に転換し、作品を作ってきた。

写真、音楽、絵、模型、文章。

私は5つの創作を今でも維持し続けている。

リストカットには、まだ感情があるだろう。自分を傷つけたい。自分を物(死体)として扱いたい。この感情=自意識=自己認識が、自身の世界、正確には、自身の周りの世界(世間)によって、自己規定された自己意識が抑圧され続けることで、並行世界における自分が無かったことにされてしまう、可能性の否定、もしくは、自己存在そのものの認識が日常世界の中で希薄化されて、気化していくような錯覚。
無かったことにされている並行世界のいくつもの自分は、結果的に、世界において否定され続ける。自分が生きている世界と自分自身の齟齬。社会的な役割を演じ続けるパーソナルと、個人としての自分が乖離し、その距離が離れるほどに、現実は虚ろになる。

生きることは痛苦であり、世界の中の自分とは罪である。

そもそもが生きることそのものが、四苦八苦なのだから、この解決方法は、悟りを啓くしかないだろう。そして、仏教の中で、悟りを啓いた人は、未だに1人しかいない。

つまり、悟れない。

空即是色、色即是空。

齟齬であり、ズレの観点で考えてみよう。抑圧され続けている自己は、世界から無かったことにされているが故に、自分でも分からない。意識化されない自分があり、これは、無意識の領域にある、というのが、私の考えである。
この無意識を反映表象しているのが、私の場合、私の創作作品になると思われる。私の数多の創作作品を自身で読み解くことで、自分の在り方が見えてくる、などということはあまりない。こんなに自意識と自己規定と自己存在が容易いものであるならば、私だとて、悟れていてもいいのではないだろうか。

人の心の深淵を覗く時、そこには「虚無」があることが分かった。虚無とは、全て等しく虚しい、という意識である。生とは虚しい。諸行無常の鐘の音が薄っすらと聴こえてくる。全ては移り変わり、やがて朽ち果てていく。

虚無とは、無である。

感情がない。正確には、フラットな感情で、凪いでいる。喜怒哀楽のない色褪せた風景。
虚無の中に居れば、リストカットも意味を失う。痛苦がなく、罪の意識も芽生えない。
やる気が起きない、感情が動かない、だから、体も動かない、自己停滞を私は悪いこととして捉えていない。虚無とは、自己救済であり、心のセーフティネットなのだから。

私は、自分の作り出した音楽が何なのか、そして、自分自身の意識がずっと分からなかった。奥底になる何か。
ここにあるのは虚無なのだ、と、あるきっかけで理解した。私の写真に通底し、私の音楽が扱っているものは、虚無世界であり、心象風景であった。

私は写真に関して、手心を加えている。暗い部分を抑えて、意図的に見やすくしている。音楽に関しては、自分が聴いていてリラックスし、眠れる為に作曲をしているので、私の生理的感覚世界がかなり反映されていると思われるが、私が作り出したアンビエントミュージックは、作曲を始めた当初から、友人たちにかなり受けが悪かった。今でも受けが悪い。どうしてなのか、今まで分からなかったのだが、どうやら私のアンビエントミュージックは「虚無」そのものを扱っているのではないか、と気付いて、大多数の人たちは、この「虚無」に耐えられないのではないか。
私のアンビエントミュージックが未熟であることは自覚しているけれど、上手い下手以前に、「聴いていられない」とよく言われる。聴いているとしんどい、不快、という感じである。私にとっての自然な世界、あるがままの環境音楽なのだが。聴いていると眠れることが多いし。

生身の虚無、というのは、多分、リストカットや自傷行為よりも辛いことなのだろう。リストカットには、まだ喜怒哀楽がある。それは「生きている」と言うことなのだ。


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