検察とメディア📰の主従関係と癒着(検察リークと印象操作)
特高のように再び国民を支配しようとする警察👮や検察の
官僚組織や手口に迫っていきます。
青木理「ルポ国家権力」
青木理(あおき おさむ)
1966年長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
90年に慶応義塾大学卒業後、共同通信社入社。
社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、
2006年よりフリーとして活動
メディアと検察、リークの現場
掲載:「週刊ポスト」2010/3/5号
十数人の記者と同伴出動
多くの人々にとっては「よくわからない」というのが率直な印象だろう。
小沢一郎・民主党幹事長の政治資金疑惑を巡り噴出した「検察リーク」批判である。3人の元秘書が逮捕されるはるか以前から、「検察情報」は新聞、テレビに雲霞のごとく溢れ返った。しかし、結果は「小沢不起訴」。
民主党は検察を「アジテーター」と指弾して「情報漏洩」を批判し、
一方で新聞、テレビは紙面や放送を通じて「取材努力」を強調した。
攻防は派手に見えるが、「わからない」のも無理はない。
検察やメディア内部の一部関係者以外、実際に検察情報がどういう経過を辿って報道されているのか、「リークの現場」がどのようなものなのか、知りようがないからである。
”青い稲妻が走った”
しかも日本の大手紙、テレビは世界でも稀なほど事件報道に重きを置いており、
中でも特捜検察が扱う事件は桁外れに大きな扱いを受ける。
畢竟、各社とも「エース」に数えられる記者を検察担当に投入し、
熾烈な取材競争を繰り広げている。
元検察担当記者・C氏はこんなエピソードを明かす。
「ある民放テレビは少し前、大学のミスコンで優勝した女性記者を検察担当に置いた。この記者は副部長のお気に入りで、彼女も副部長への"モーニングメール"を欠かさなかったそうです。男性記者が送ったら気持ち悪がられるでしょうが、女性なら喜ばれる。
別の社の女性記者は、部長室に茶器を持ち込んで"お茶会"までやってました。
これも検察に食い込むための立派な"取材努力”ですよ」
出入り禁止――。検察が乱発するメディア制御策の1つである。
「どう考えてもおかしな”内規”なんですが、抗えるものではないのも事実。
私が検察担当だったころは、夜回り取材などの際に部長や副部長の自宅近くの電信柱の陰に出禁となった社の記者が隠れてました。自虐的に”ここは出禁スペースだ”なんて呼んで、出禁になっていない社の記者が取材を終えると部長や副部長の発言内容を聞き出したりして。お互いにいつ出禁になるかわからないから、ライバル社同士で”相互扶助意識”が作用することもある」
マスコミに「風を吹かせる」印象操作
「それを検察内部では『風を吹かせる』と呼ぶんです。
捜査はマスコミを利用したほうがうまくいくケースというのも実は少なくない。
マスコミは検察情報なら真実だと解釈し、大々的に書きたてる。
結局、検察に狙われた被疑者は徹底的に断罪され、極悪人であるかのように描かれ、検察捜査の正当性が印象づけられていく」
このあたりが「検察リーク」問題の核心となるのだろう。
情報には魔力がある
「マスコミは最大の取材先である検察から情報が取れなくなることを極端に恐れている。だから、私が告発しようとした検察のウラ金問題などは絶対に書かない。
特に大手マスコミはダメです。
私は日本に真のジャーナリズムなんてないと思っています」
「私も組織人ですから、デスクに『(他紙に)絶対抜かれるな』と厳命されれば、
必死になって検察幹部にぶら下がるしかない。
本当は独自取材で政治家や企業の問題点に斬り込んでいきたいのですが、
社の上層部から
『それは事件になるのか』
『訴えられるのではないか』と一蹴されてしまう。
要するに当局に寄り添っていた方が楽なんです」
つまり検察にベッタリと寄り添った報道姿勢が、
検察捜査のお先棒を担ぐ報道を構造的につくりだしているということだろう。
近年の検察――特に特捜検察の内部には、
「正義の使徒」として強烈な誇りを持つが故の独善が生じていないか。
検察にのみ寄り添い続けるメディアがそれを煽っているとするなら、
メディアがいくら「取材努力」などと強弁しても、国民の目から見れば「馴れ合い」でしかない。
伊丹万作「騙されることの責任」
もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。
もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない。一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より