破壊と再生ー25歳はじまり日記ー

それから旅に出る -

その、太陽みたいに明るいテキサスのカメラマンと、月のように優しい光を持っているニューヨーカー。私たちの旅は始まった。

映像を作りたくて、風が吹く昼も、照りつける暑い夏も、とにかく脚本を書いては、二人に見せて、一緒に撮影するということを繰り返していた。

大学のクラスでも、一緒になれば、とことん新しい映像を追求したし、普段の生活でも守ってくれるお兄さんであり、私のアイディアを実現してくれる頼もしい味方でもあった。

話は逸れるけど、母の友達、今は亡き人になってしまったけれど、彼女と生前に会った時、こんなことを言われた。

「楽しいことは誰とでも出来る。でも、本当に苦しい時、辛いことを乗り越えられるのは真の友達とだけよ。」と。

そう、その文化も国籍もしてきた経験も違う、太陽男と月男とは、苦いことも易いことも、酸いも甘いも乗り越えるだけの絆を結んだ。そしてそのきっかけは映画だった。

2021年の春、私が大学4年生になったとき、新しいチャレンジをしてみた。多国籍クルーの映画制作と日本人との映画制作、どっちが自分に向いているのか知りたくなり、思い切って大学と日本の映画学校を両立。ダブルスクールをしてみた。(軽く死にそうなくらい多忙を極めたが何とか生還。)

日本の映画スクールについてはいつか違うブログで話そうか否か…

その学校に半年(ちなみにここは短期の専門学校で、私の場合は制作に関する知識を大学で一通り学んでいたので、初期のコースをぶっ飛ばして在籍した)在籍して分かったことは、外国人とフラットな関係で芸術を追求する方が断然好きだった、と言うこと。

こんなことをいうのはタブーかもしれないが、私は、肩書きなんかより、ただずっと最高だと思う作品を作りたかった。それだけが目的になると、威厳とか、尊厳とか、そういうものを追求する日本の監督のあり方(そこの学校の私が携わった班のみの世界線かもしれないが)が妙に合わなかった。それより聞きたかった。

みんなに。どう思う?って。
”あなたは監督という立場であるにも関わらず自分の決断を信じられてないのでは?”と言われてしまえば、そこまでなのだが。w

他の人が監督していく作品に携わってみて分かった。客観的に、こうしたら良くなるのに、という端くれの考えって捨てたもんじゃない。監督にとって思い入れのある作品だからこそ、常に監督は作品に対して哀れにも、最も主観的な立場になってしまうのだ。だから、そこに入ってきたぽろっとの意見こそ、なんかその作品に必要不可欠な要素だったりする。カルボナーラの最後の粗挽き胡椒みたいな。下っ端の何の利害もない素直な意見こそ、宝だ。と、私は思う。

その下っ端の立場を経験したからこそ、うずうずした。自分が監督だったら、そんな人の純粋無垢な意見も聞いてみたい。それで、取捨選択するのは監督自身だが、そこを聞かずに終わるのは勿体無さすぎる。

と、我を忘れて語ってしまったが、要するに、今一度、陰と陽の彼らに会いたくなった。たくさん意見交換をして、むぎゅむぎゅ練りまくって、また作品を一緒に作りたくなったのだ。

それで、2021年夏に制作を再開した。映画学校で唯一仲良くなれた子と、太陽君と月くんと。初タッグだ。

暑い真夏の記憶。私たちは何を求め、あんなに必死にぶつかったりしたのだろうか。コンクリートの陽炎と、撮影した東京のある素敵すぎる街を思い出す。

ー 続く ー

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