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Pude ver un Puma/Eduardo Williams、実写と空想の境目をいく

手法として確立されているのか、予算がないこともあるのか、海外のインディー映画では、実写で・現実の街をそのまま使って・その切り取り方の工夫によって、非現実の世界を見せる、という作品をちょくちょく見る気がする。
今回は「Pude ver un puma/Eduardo Williams」(2011)について。英題は「Could See A Puma」。

冒頭、月を映しながら始まるナレーション。
カメラはそのまま街の屋上をぶらつく少年たちを追っていく。彼らは暇な時間を友達と潰している。学校が終わったあと、友達の家や住んでる街で、ゲームして遊んだり、フードコートとか買い物とか行ってみたり、そうやって放課後をだらだら過ごすのと同じような空気が流れている。こうした日常の風景が、突如としてなだらかに、非日常へ接続していく。少年が落ちてしまったあと、場面が切り替わって映し出されるのは、水没し荒廃した街だ。

半ば崩壊し、水の浸入を許した建物、あたり一面に広がる海のような光景。
こんな場所あるのか…?と思い調べてみると、この映画はVilla Epecuén(ヴィラ・エペクエン)という場所で撮られたそう。ヴィラの名の通り、当初は観光地として名を馳せたが、1985年、決壊した水が流れこみ水没してしまった。時を経て、乾燥した気候が続いたことで再び姿をあらわしたらしい。
荒れた街を3人の少年たちは彷徨う。旅路を彩るのは無邪気でどこか示唆的な会話。夢の中で見た作り物みたいな空の話をする、崩れた家の中で見損ねたビデオの話をする、体に彫ったタトゥーの写真を撮らせてほしいとせがむ、「きみ何歳?」「13.7ギガ歳」。そして場面は鬱蒼とした森へ移る。不穏な真っ暗闇のなか風にあおられる木々、その中心へ登場人物たちは向かっていき…

この映画、ラストが個人的に印象深く、忘れられない。見たことのない風景を駆使して織りあげた世界の終わりは、これまた実写と幻想の境目をいく印象的なカット。
少年たちはどこへ向かったのか。画面の前に取りのこされた観客は、実在している空想の光景とその住人について思いを馳せる。

撮ったのはEduardo Williamsというアルゼンチンの監督。断片的なシーンを重ね、間接的にストーリーや関係性を示していく作風。唐突にも感じられる場面展開を眺めていると、語られていない背景や同時多発的に起こっている世界との繋がりを感覚的に体験できる。2016年のインタビュー記事を見てみると、監督は定住しておらず、世界各国を移動しながら映画を撮っている。プロの俳優を使うのでなく、例えばモザンビークでは、街中でポスターを貼って出演者を募集したり(数百人の応募があったそう)。台本は使ったり使わなかったり、曰く、「あまり説明しなくても、一緒に過ごすことで、お互いを理解したと感じている」。次作「The Human Surge」ではブエノスアイレス、モザンビークと続き、フィリピンで語りが終わる構成。

この後、2018年に「Parsi」という映画も制作していて、予告が見られる。

https://www.youtube.com/watch?v=J7XdVhBTOes


快活に歩く黒人女性たちが映り、ナレーションで「…みたいな、…みたいな」とひたすら雑多な事物が並べ立てられる(ちなみにピカチュウとK-holeもいる)。断片的な語りがますますパワーアップしていそうな予告で、映像のざらざら荒れている感じも健在。いつどうやって観られるかさっぱりだが、何とかして観たい。

この映画はvimeoで公開中。ちなみに私は、済東鉄腸さんのブログ「鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!」で同監督を知り、購入したDVD「The Human Surge」の特典として観ました。なんとアマゾンで買えます。

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