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東京と、なんでもない場所。「屋上びらき」

東京の行き場のなさを東京にいながらにして脱することはできるか。あのドアを開ければ、あの階段を登れば。。

デザイナーの和氣です。「屋上びらき」では企画プランニングやプロジェクトの立ち上げを行っています。

私たち東京アルプスは「屋上びらき」というプロジェクトで、
東京ビエンナーレ2020にソーシャルダイブのアーティストとして参加予定でした。都市の未利用地である「屋上」を一つ一つ開拓して、アクティビティにつなげようというプロジェクトです。
しかし東京ビエンナーレ自体もコロナウイルスの影響により、一年の開催延期となりました。参加決定が決まってから、随時、プロジェクトは進行していましたが、with coronaに伴い、改めて、「屋上びらき」企画の背景にある考え方を振り返ってみました。


・東京の「住まう」
・東京総コンセプト化
・何もない、なんでもない場所

・東京の「住まう」

とにかく人大杉。
これは、いうまでもなく、誰もが思うことだと思いますが、3歳児を抱え自粛生活の今、詰んでます〜屋上シェアリング妄想というのをFaceBookに書きました。。

都市というシステムは、人を一か所に集めて、政や、住む、商うを合理的に行うため、成長していくという前提では、大変有用でした。
このコロナ禍に際しては、ビジネス街や繁華街は人が減ったものの、その分生活の街に人が増えています。商店街に、公園に、と多く報道されています。
そりゃそうだ。東京の人口の変わらない中で、使える土地が減れば、そこに密集が生まれるのは、当たり前のこと。都市の諸刃の剣感をコロナウイルスが、可視化してくれたようにも思います。

・東京総コンセプト化

私は東京に生まれて、育ち、東京で大人になりました。20代の半ばくらいから、東京には、「何もない、なんでもない場所が必要」なんだよな、と思うようになりました。東京って、新しいものにもレトロなものにも、生活に密着したものにも巨大なインフラにさえ、誰かが何かに名前をつけて、コンセプトをつけて、小粋な過ごし方や、スタイルを、力を持った人が提案するような、そんなことが繰り返されているように思います。それらは一見、とても斬新で、心地よく、あるいは楽しげに、新しい価値を提案しているように見えたりしました。
しかしながら。
それもピチピチ(古)の20代前半までの話で、ある時点から、とても窮屈に感じるようになりました。
それは、自分がこっそりと楽しんでいたものにも、誰かが名前をつけて、こうしましょう、この価値が新しいんです、と言っているように感じられて。自分だけの場所に没入する、自分を確認できる、未開拓の「なんでもない」空間が、物事が、どんどんとなくなっている、そんなようにも思ったんです。

屋上びらき企画を立てる際、それぞれのインサイトを探るためにストーリーボードを書くことにしたんですが、私はその一部にこんなことを書いていました↓↓

隙間は隠れて楽しみたい。その時間は私だけの場所である。ここを見つけないでほしい。勝手に楽しみ方を規定しないでほしい。勝手にその行為にコンセプトや名前をつけないでほしい。
何でもない、何もない、そんな場所が必要だ。


・何もない、なんでもない場所

私が屋上に惹かれたのは、前述のような観点からです。多くの屋上が登れない状態になっていますが、たまに入れるところがあると、いわゆる3rdplaceと呼ばれているところとは違い、色のついてない空間が、そこにはあります。
建設当初からあるものの、設備のメンテナンス時にしか使用せず、空間としてはそのまま昔の姿を残しているペンシルビルの屋上、昔は住人が洗濯物を干すのに使用していたが、生活が便利になるにつれて、喫煙所になっているような屋上……など。
個人的に好きなのはそのような、野ざらしの屋上です。
街や、自分や、人とのつながりや、仕事や、家族や、経済や政治や社会問題や、現在過去未来をボーッと眺めつつ、俯瞰した「今」を感じられる、屋上とは私にとってそういう場所です。
そして、つながりの促進するでも、エンタメでも、アートでもない、未解釈の、「なんでもない場所」を必要としている人が、他にもいるかもしれない。
ひっそりと取り残されているような、そんな空間が、「屋上びらき」で
原風景として持っていた屋上のイメージです。

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今掲載しているような実際の「屋上びらき」プロジェクトとは少し乖離があるかもしれません。(現状の屋上びらきについてはまた別記事で記載します。)
これは、提案過程での様々な人の反応を見て、結構、「ピンとこんなぁ」という顔をされたり、なんだりありまして。
あまり多くの人に共通の感覚ではないのかも、と考え、現在の形になっています。

しかし、このコロナ禍において、個人的なレベルの問題意識としてだけではなく、ある程度普遍的な感覚になってきているのではないかと思うようになりました。
この状況になって、公園に行く人が増えることや、近所を散歩することが増えたことは、単純に運動不足解消だけではなく、精神的に馳せる場所、
余白を求めているのではないかと。
一番初めに考えた、都市に慣れきって生活している人間からの視点の、「なんでもない場所」としての屋上というものを
もう少し深めて企画して行ってもいいのかなと思っているところです。

情報としても、面積としても、余白のなさがこのコロナと
都市の関係を表しているように思うのです。


絵/写真/文 和氣明子

和氣明子
アートディレクター・デザイナー。フューチャーズというデザイン事務所をやってます。3歳児を抱え、コロナにガッチリ影響受けてます。やれやれ。

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