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東京で自分の感受性を守っていくために

大好きな茨木のり子先生の詩にはいつも頭を殴られるけど、これに何も感じなくなったら本当の終わりだと思う。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
感受性を守るというのは、自分の考えや価値観を受け入れ、誰にも介入させず、周りの環境や他人のせいにもせず、自己責任で生きていくことだと思う。

昨日飲み屋で酔っ払い、知らない人たちに対して「東京という名のゲームに参加させられている」となんとも痛々しいセリフを吐いた。「東京」というゲームは、お金・容姿をメインに、どこに住むか何を身につけるかなどの総合点で競い合う。ゲームのプレイヤーになるかはその人次第だけど、承認欲求がある限り半ば強制的に参加させられる。つまり、無意識にこのゲームの評価指標を軸に生きていくことになる。

戦時中を生きたのり子先生が書いたこの詩を、こんな被害妄想と重ね合わせるのは申し訳ないが、いわゆる「成功」についてこんなにも多くの人が共通の認識を持っている東京において、自分の感受性を守っていくことはなんて難しいことなんだろう。

自分を自分とありのまま受け入れて、それに抗わず、本当に自分らしく生きられたら、こんなに幸せなことはないのに。少なくとも私は、このゲームに没頭してとにかく上を目指せるほど、心が強くもないし、能力もない。でもこの東京の価値観を捨てることができるほど、成熟もしていない。

与えられたカードで生きていくしかない世界において、自分の感受性で生きていくのは私の場合、東京での敗北を意味する。

結局一番狂っているのは自分だ。

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