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【読書記録】舟を編む

今回は、三浦しをんさんの、"舟を編む" です。

この本への記憶

これも実家にあったから読んだ本だなあ。気づいていなかったけれど、うちの父親は、本屋大賞なんかに入った本はわりかし購入しているらしい。歴代の本屋大賞、各年何冊かは実家にある。

言葉って素敵だ。素敵で、難しい。

言葉がないと伝えられないけど、言葉があったって完全には伝わらない。共通の言葉で認識しているものが、全く同じだとは限らない。それは不便なことかも。でも言葉がなければもっと不便で、不安だ。言葉でなければ、人間の感情は処理できない。人間の社会では生きていけない。恐らく。
“歪みの無い鏡”、”言葉は記憶”。どちらもこの作品で出てくる表現。
言葉があって、そこに共通の意味があるから、人は過去や未来や、感情や事実をそこに留めることができる。

言葉にするということ

noteの記事を書くようになってから、投稿前に、これで本当にいいのか、と何度も思ってしまう。こんな言い方をすると怒られそうだけど、物語ならこういう風な悩み方はしないのかもしれない。そちらはそちらで違う難しさがあることは分かってる。けれど、物語なら、多少偏見の強めな視点で語っても、それは私そのものの投影ではないから。私が生み出した、私以外の誰かだから。

でもこれは、私だ。私の発する言葉。私自身が考えていること。
怖い。曲がって伝わってしまうことが。
でも言葉というのは本来そういうものなんだとも思う。切り取る側の感情や知識で、どんな風にも意味を変えてしまう。だから気をつけないといけないし、気をつけていても、こちらの思う通りには動かない。不思議だ。それを再認識する。

当たり障りのないことを書いていくことはできるけど、それでは書いている意味がないとも思う。でもだからと言ってグダグダと、私が自分の言葉に対する言い訳のような文章が並ぶのも鬱陶しい。

全ての人に好かれることは不可能。ダンブルドア先生もハグリッドにそんなようなことを言っていた (突然の登場)。分かっている。
それに私には、叩かれたり、誰かを傷つけたりするほどの影響力すら、ない。でもだからといって、なんでも好き勝手に書いていいものでもない、と思う。誰でも読めるものなのだから、私の書いた文章で誰かが嫌な思いをするのは、傷つくのは、怒るのは、嫌だ。

辞書

言葉。人間が意思疎通を図るために、人間が生み出したもののはずなのに。そこには底知れない何かがある。この作品で表現されている、大海原のように、広くて深い世界。そこにあることが分かっているようで、もしかしたらそこにはないかもしれないとも思う。手の中に掬い取ったと思っても、こぼれ落ちて、広い広い海の一部へと帰っていってしまう。時代と共に、環境と共に意味を変えていく言葉。
辞書でさえ、人が作っているのだから、変わっていくんだよな。当たり前だけど。気がつかなかった。同じこの世界に生きている人たちが、言葉のきまりを記した辞書を作っているってこと。
同じ言葉にも辞書によって違う定義がされていて、そして時間軸に沿ってまた変化していく。
同じ言葉を使っても、同じ言語で話していても、完全に通じ合えているとは言えないのだろう。辞書を引いても、引いても、言葉の定義は言葉でされているから、どんどんどんどんバラバラにしていったって、それは言葉でしかなくて。つまり人の数だけ、その言葉への意味、感情、イメージ、様々あるってことで。

辞書というものを作っている人がいる、ということを考えたことが無かった。ビブリア古書堂の事件手帖の感想にも書いたけれど、私はそういうことに少し疎いのかもしれない。この世に販売されているものは、誰かが生み出しているものなのだという意識。

こと辞書に関しては、そういうことを意識するよりずっと前から、私の周りに存在していた。だから、ずっと古くからあるもの、という印象を持っていた。日本語というものが生まれた時から、それに対応する意味の記された辞書というものが存在すると思っていた。改訂されて、新しくも生み出されて、っていうことがあるのは当たり前なのに。ずーーっと変わらずそこにあるもののように。
本当は、私たちと同じ時代に生きる人が、この時代に存在する言葉をひとつひとつ集めて、今世間で使用されている歪みのない意味を、そこに付け加える。そのはかり知れない、途方もない作業の積み重ねで、生み出されているものなのだよなあ。と。
つまりは同じ言葉にも辞書によって違う定義がされているし、時間軸に沿ってまた変化もしていく。

最後にちょっと関係ないけど

音だけで聞いていた単語が、文字になった瞬間違うものに思えることが結構ある。これって私だけなのだろうか。例えば少し珍しい苗字の人とある程度仲良くなった後、その人の名前を漢字で見ると誰か分からなかったりする。ちょっと違うんだけど、もしかすると「やすださん」という音で認識していた人を「安田さん」だと思っていたら「保田さん」だったときに勝手に違和感を抱いてしまうのなんかも似たような感覚かもしれない。
同じものを指してるはずなのになんか違うと感じる。説明難しいけど。
多分私は言葉を音としては聞いていなくて、文字として認識しているんだろうなと思う。脳内での漢字変換が追いつかないと、外国語を聞いているような気分になることすらある。入社直後、分からない社内用語が飛び交う中で完全に思考がショートして、頭の中で一般名詞すら変換できなくなった経験がある。あれは焦った。

今日はこれでおしまいです。
読んでくださったかた、ありがとうございます。

七夕は過ぎてしまいましたが、目をそらしたくなるような、耳をふさぎたくなるような悲しいニュースが、少しでも減りますように。

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