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いのちの捉え方についての思案を言語化してみた件 ―嘱託事件ニュースに刺激を受けて―

こんばんは、心太です。

ALS患者さんの嘱託殺人事件のニュースが出て、1週間とちょっとが経ちました。

この事件について、直接的にどうこう言うつもりはありません
まだいろいろ調査中でしょうし、裁判も終わっていません。
(そもそも当人が死亡されてしまっているので、一番肝心かと思われる情報はもう得られるべくもないのですが…。)
論ずるには情報不足ですからね。

なので、今回は“いのち”についてぼんやりと考えを巡らせてみます。
完全に私見ですし、正直この命題に答えはないとさえ思っています。
私の中でも、子どもの頃と今とでは少し考えが違うので、その辺りの整理を含め言語化を試みました。

かなりセンシティブな話題なので、少々(いやかなりか)ドキドキします。
でも、戦争もなく、経済的、衛生的に恵まれた日本という国に産まれ、いのちについて考える機会は得難く、そして大切なことのように感じました。

過去の心太:いのち=自分のもの・自己決定の産物

以前の自分はどう考えていたのか。
この記事を書く上で、少し思い起こしてみた。

昔のぼくは、いのちは自分のもので、生かすも殺すも自分次第と思っていた。
“尊厳死”という単語が世に出てきたときには、「なぜ、これに反対する人がいるのか」と疑問に思った。

生きるのはその人自身の問題で、本人以上にその人のいのちに責任を持てる人も、責任をとるべき人もいない。
であれば当然、いのちの決定権も当人が持ってしかるべきだ。

死にたい、という本人の意思もまた、尊重すべきものなのではないか。
これが、子ども時分に考えた心太の考え方だ。

現在の心太:いのち=?

現在の自分はどうだろうか…。
昔に比べてかなり複雑な考えになっていて、一言では表現するのが難しい。

いのちは本人のものだ。
基本的な哲学は変わっていないように思うが、純度はかなり下がったように感じる。
特にいのちに対する自己決定権について、強く言い切ることができなくなった、と言い換えてもいい。

これはひとのこころについて、幾分か知識を得たことも影響しているし、「ひととはなにか
」という“人間観”が少し変わった、正しくは加わったことも影響しているように思う。

ただ、とてもじゃないが“答え”に行き着くことはないし、自分の考えが正しいなどとも思っていない。
また、いささか考え過ぎのような気もしないでもない。

知識を得て変わったこと “希死念慮”と“タナトス”

心理学を学び、こころの病についての知識を得た。
そうすると、自分の“意思”というものが、どれだけ不確かで移ろいの大きなものかが分かってくる。

Ⅰ.希死念慮について
いのちに関して代表的な知識の一つは、うつ病や抑うつ状態のときに現れる、“希死念慮”だろう。
死にたいと感じること、望むこと、計画をすること、などがこれにあたる。
そして、これは病気の“症状”や、一時的なこころの“状態”と見なされている。
“症状”であるため、治療がうまくいけば「死にたい」と感じることは無くなる。

“症状”なのであれば、それは本人の“意思”と言えるのだろうか?
(がん細胞が”痛み”を生み出すように、うつ症状が”死にたい”を生み出している)
「当人の意思を尊重すべきだ」、という考えは「当人の意思が100%、当人の自由意思に基づいている」という前提のもとに初めて妥当だと思う。

死にたいと願ったとして、それが自由意思なのかどうか、どのように明確にするのか?
こう考えると、本人の意思を尊重する、ということがすごく難しいことのように感じた。

Ⅱ.死の欲動、タナトスについて
もう一つの知識は、こちらはかなり古典になる知識なのだが、ジークムント・フロイトが提唱した理論だ。

簡単に説明すると、ひとには死や無になることを願い、死や無に向かっていく欲望が備わっている、というもので、その欲望を“タナトス”と呼ぶものだ。
ギリシア神話の死神の名でもあり、そこから引用したものだ。

人間にはあらゆる欲望がある。
であれば、死に向かう欲望があってもおかしくはないかもしれない。
ということは、死を望むということは、全てが“症状”や一時的な“状態”とは言えないのかもしれない。

死の神タナトス ヤチェク・マルチェフスキ

この二つの知識を得たことで、「死にたい」という考えが、本人の“意思”とも言い切れないし、“症状”や“状態”などの異常事態とも言い切れない、と思うようになった。
※明らかにうつ病発症後に感じだし、本人もそのように自覚している場合は除く

おまけ 生き延びること=素晴らしい?

生きることが楽しい!、と感じているひとのことを否定する意図は一寸もない。
ただ、すべてのひとが生を素晴らしいと感じる、もしくは少しでもプラスに考えるべきもの、という結論に疑問を感じる。

自殺(もしくは自死)は、「本人の意志なのだから尊重すべきだ」、という意見を『自己防衛のための思考停止だ』、とする考え方もある(ちょっとややこしいですね)。
なかなか鋭い考え方だと思うし、確かに自己防衛の場合もあるだろうと思う。

で、あれば 生き延びること=素晴らしい これも同じように思考停止なのだと思う。
冒頭にも述べたが、結局答えは出ないし、正解なんてものがあるのかも分からない。
だから、できることは、考え続けること、もしくはなーんにも考えないことなんだと思う。

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主張があっちこっちしてしまいました(笑)
“人間観”について、書く前に力尽きたのでまた今度にします!


では、また。


心太

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