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コマーシャル中に女優の菊池(仮名)の隣で踊る彼女も彼も、実は成功者であることを忘れてはいけない。『デタラメだもの』

嗚呼、何かで一発当てて有名なりたいわあ。何かで一発当てて金持ちなりたいわあ。パソコンやらスマートフォンをピコピコと触っていると、仰々しい意見や物々しい主張を世間に発信できたりもする時代。ふとしたきっかけで世の中に出られるんちゃうの。一発当てられるんちゃうの。と、現実逃避しながらニュース番組などを見ていると、ふと気づいてしまったことがある。それはコマーシャルを見ていたときに気づいてしまった。

著名なタレントさんがあるメーカーの商品を手に、歌って踊ったりするコマーシャル。タレントさんを中心として、左右に二名ずつ、タレントさんと同じ衣装を身にまとったダンサーが、タレントさんと同じ振り付けで楽しげに踊っている。彼女ら彼らは、決してバックダンサーではない。だって、タレントさんと横一列に並び、同じようにして歌って踊っている。タレントさんの背後で歌って踊っているわけでは、決してないからだ。だって、横一列だもの。

消費者の大半は、編隊の中心で歌って踊って商品をアピールする、その著名なタレントさんの一挙手一投足に注目するだろう。友人知人などとそのコマーシャルの話をする際は、「女優の菊池(仮名)が出てるコマーシャル、めっちゃ印象に残るよねぇ」などと言い合う。そう。主役はあくまで女優の菊池なわけであるし、商品の宣伝を目論む企業側も、女優の菊池に対し、多額のお金を支払い、コマーシャルの出演を依頼しているわけだ。

ちょっと待ってくれ。一旦待ってくれ。例えインターネットが主流になり、テレビの視聴率が落ちている昨今とは言え、誰しもが一度は、テレビに出ることに憧れを抱いた経験があるはずだ。そう考えると、女優の菊池の両サイドで同じ衣装を身にまとい、歌って踊っているダンサーの人たちは、テレビに出るという偉業を成し遂げていることになる。実は、すごい人たちというわけだ。

仮に、女優の菊池の右隣のダンサーの彼女を、ダンサーの楠木(仮名)としよう。ダンサーの楠木のご両親はきっと、そのコマーシャルが流れるとき、女優の菊池などには目もくれない。自分の娘が15秒の間、楽しげに歌って踊る様子を目に焼き付けているに違いない。

例えばそれが缶チューハイのコマーシャルだった場合、そのご両親にとっては、「ウチの子、缶チューハイのコマーシャルに出てますねん」という立て付けになり、近所の人たちに自慢する際は、「缶チューハイのコマーシャル見はった? アレやんアレ。女優のナンタラって名前の子が出てるコマーシャルやん。あかん、名前ド忘れしてしもたわ。え? 菊池? ああ! そうそう女優の菊池やん。あの子が出てるコマーシャル、ウチの子、出てますねん」という立て付けになり、女優の菊池の存在は、缶チューハイのコマーシャルを特定するためだけのアイテムに成り下がることになる。

「でも、どうせ脇役でしょ。メインは女優の菊池だもの」と、楠木のことを蔑むヤツがいるかもしれない。しかしだ、そのコマーシャルに抜擢されるとうことは凄いことなわけだ。抜擢されるまでの楠木の人生はきっと、多くのライバルをなぎ倒し蹴落とし、努力に努力を重ね、他人がスースー寝息を立てながら眠っている間も、ずっとダンスの練習を欠かさなかった。表現力を磨く努力を怠らなかった。だからこそ、所属事務所のマネージャーだったりが、「今回、缶チューハイのコマーシャルの話が入ってきました。出演は楠木さん以外に考えられませんので、楠木さん、ガンバッテ!」と、彼女を指名したはずだ。

このヒューマンドラマから学べること。それは、女優の菊池になるためには、恵まれた才能や多大なる努力に加え、運やら縁やらが重なり合い、奇跡的な条件が揃わなければならない。しかしだ、ダンサーの楠木になるためにも同様。恵まれた才能や多大なる努力が必要なだけでなく、所属事務所内で好かれる人柄や、頼まれごとを断らないひたむきな性格、自分のアピールを怠らないしたたかさ。そういったものを兼ね備えていない限り、ダンサーの楠木には容易にはなれないということだ。

それなのに、世間はコマーシャルが放映されている間、女優の菊池に注目する。注視する。凝視する。ダンサーの楠木なんかには目もくれず、女優の菊池にフォーカスを当てる。楠木に注目しているのは、両親や親戚、友人、学校の恩師、幼少期に通っていたダンススクールの先生、バイト先の先輩後輩、馴染みの居酒屋の大将、馴染みのカフェの店員、馴染みの服屋の店員、行きつけの美容院の担当スタイリスト、あとは元カレ、くらいのものだ。

だからって楠木のことを蔑むな。軽視するな。誰しもが抱いた、「一回でええから、テレビ出てみたいわぁ」という憧れや願望を、楠木は既に叶えている。しかも、街頭インタビューなどで偶然出演するような素人枠での出演ではなく、そのコマーシャルを盛り上げ対価を貰うという、プロの立場でテレビに出ているわけだ。菊池にだけ注目するなんてあまりにも惜しすぎる。楠木のことをもっと知るべきだし、彼女から多くを学ぶべきなんだ。

さらに特筆すべきは、いぶし銀のダンスで名を馳せる楠木には、今後、多くの仕事が舞い込んでくることが予想されるし、ダンサーとしての寿命は果てしなく長いかもしれない。一方、今が旬だと囁かれる女優の菊池は、あと数年もすれば、テレビの世界から姿を消すかもしれない。お茶の間の誰からも相手にされないかもしれない。それが業界だ。食うか食われるかの恐ろしい世界だ。

こんな風にしてコマーシャルを観てみると、出演している全員の物語を知りたくなるし、出演している全員が圧倒的な努力の末に、そのポジションを勝ち取ったんだと思えば、自ずと胸も熱くなる。コマーシャルが放映されるたびに、次はダンサーの河野(仮名)、次はダンサーの村下(仮名)、次はダンサーの越後(仮名)といったように、順に興味を移していくことができる。もしかすると、ダンサー村下の頑張る姿に胸を打たれ、その商品のことを好きになるかもしれない。スポンサーにとって村下という存在は、費用対効果がバツグンに高い逸材かもしれない。

そういえば昔、大阪にある昼間っから呑兵衛たちがベロンベロンに酔っ払っているのが普通とされる町で昼間っから呑んでいるとき、カウンターの隣のおっちゃんがベロンベロンになりながら、「ワシなぁ、テレビに出たことあるねんぞ」と仕切りに吹聴していた。「何のテレビに出はったんですか?」と尋ねても、酩酊状態のため、他人の言葉は届かない様子で、「だからぁ、ワシなぁ、テレビに出たことあるねんぞ」を連呼していた。あと、「ワシなぁ、社長やねん。デッカイデッカイ会社の、社長やねん」というフレーズも連呼していた。

その時は何とも思わなかったが、今にして思えば、テレビに出たことがあるだろうあのおっちゃんは、偉大な人物だったのかもしれない。それがたとえ、エキストラ出演であったとしてもだ。エキストラ出演を希望し、応募するという行動に出たうえで、見事に出演を果たした。それは紛れもない事実として、後世に語り継がれる。

おっちゃんの偉大さに感化され、まずはエキストラ出演からスタートさせ、グングンと頭角を現し、最終的には缶チューハイのコマーシャルを勝ち取ってやるぞと意気込み、タレント事務所のエキストラ出演者募集フォームから出演を希望してみたところ、「残念ながら今回はご希望に沿うことができません」と返事がきた。あまりの悔しさに、冷蔵庫で冷やしてあった缶チューハイを一気に飲み干した。

デタラメだもの。

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