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「大丈夫です」という言葉は日本人らしく曖昧で主張もボヤかされていて便利な反面、いろいろな問題も孕んでいて多用は禁物だ。『デタラメだもの』

意思表示というものはとかく難しいもので、特に相手方が良かれと思ってやってくれている行為を拒むときなんかは、日本人元来の明確に意思を表示しない性分が発動し、あやふやな空気が漂う。そして、そのあやふやな空気の中で多用される言葉こそが、「大丈夫です」というフレーズ。

例えば相手方が良かれと思って何らかの物品を提供しようとする場面がある。1対1の場面で提供されるともなれば、さすがにその物品を不要だと感じていたとしても、「あっ、ありがとうございます」と、きっとそれを受け取ることだろう。まぁ、言うてみれば、これも日本人らしい所為なのではあるが。

で、それが複数人に向けられた物品の提供だったとしよう。そうすると、例えこちらがその享受を拒んだとしても、所詮、こちらは大勢いるうちの一人。相手の行為を拒むという相手へのダメージも薄れることだろうと、物品の受け取りを拒むことを試みる。そんな時に、「大丈夫です」というフレーズは登場する。

「某企業様からお歳暮が届いておりましてですねぇ。今、従業員の皆さんに配っておりましてですねぇ。おひとつ、いかがですか?」
「あっ、僕、大丈夫です」

ってな具合に、「あっ、僕、要りません」と、白黒ハッキリつけるのではなく、お気持ちは非常にありがたいのですが、語れば長くなるような諸々の事情により受け取ることができません。が、あなたの気持ちはしっかりと受け止めましたので、僕はその物品を享受しなくても、大丈夫ですよ。という意思表示なんだろうね。端的に言ってしまえば、物は受け取らないよ、でも気持ちは受け取ったから大丈夫だよ、君の行為を無駄にはしていないよ、無碍にはしていないよ、無慈悲な人間ではないよと、そう言っているわけである。

ただ、相手方が察しの悪い人物であった場合、「ん? 大丈夫ってことは受け取れるってこと? それとも要らないってこと?」などと、こちらの薄っぺらい自尊心を破壊しようと試みてくることがある。

確かに分からなくもない。「大丈夫です」とうい言葉には、何が大丈夫なのか、という主張が抜け落ちてしまっている。先方が詰問したくなる気持ちも理解できる。殊更、物品が飲食物だった場合などは、その傾向が強くなる。

「先日のプロジェクトのお礼として、某企業様から甘い甘い洋菓子が届いておりましてですねぇ。今、従業員の皆さんに配っておりましてですねぇ。甘いもの、お好き? おひとつ、いかが?」
「あっ、僕、大丈夫です」

この文脈からすると、僕という人物は、甘いものが食べれるスイーツ男子ですよ。そう主張しているとも取れる。とかく、お酒を好む男性などは、時に甘いものを拒絶するケースもあり、嫌なことが発生すると刹那にお酒に逃避するような自分みたいな人間は、他者からすると甘いものを拒絶するタイプに見られているのかもしれず、それ故に相手方から、「甘いものは大丈夫?」という意味を添えて、飲食物の提供を受けているのかもしらん。

そういった場合の「大丈夫です」は、「僕、甘いもの、大丈夫です。だから、ありがたく頂戴いたします」という意味に捉えられても仕方がない。当然のように相手方は物品を差し出してくる。こちらはそれを苦笑いして拒む。相手方は困惑する。こちらは「えへへへへ」と薄笑い。その時点でコミュニケーションは完全に崩壊している。人間関係にも亀裂が生じている。

ただ、なかなかどうして、「おひとつ、いかが?」という良かれと思っての善意に対して、「あっ、要りません」などと、直球を放り投げられないものだ。何かしらのオブラートに包んでお返しせねば、それこそ相手方を傷つけてしまうんじゃないだろうかと、妙な罪悪感に苛まれてしまうわけである。誰かしら、この要件を満たす万能な新用語を開発してもらえないものだろうかと、願いを託す流れ星を待つべく夜空を見上げてみると、ラッキーなことに瞬時に流れ星。実直に願いを伝え終えると、それは流れ星なんかではなく、眼鏡のレンズが汚れていただけだった。

「大丈夫です」を連呼しなければならない場面もある。それは、コンビニエンスストアのレジでの会計時。お会計のルーティーンワークの中でそれは発生する。

「ポイントカード、お持ちでしょうか?」
「いや、持ってないです」
「良かったらお作りしましょうか?」
「あっ、大丈夫です」
「お時間かかりませんよ。ちょっと書いてもらうだけなんで」
「あっ、ほんとに大丈夫です」
「分かりました。では、こちらレシートです」
「あっ、大丈夫です」

もし諸外国の方が日本語を学ぼうとして、この会話を事例として目にしたとしたら、「彼はなぜこれほどまでに、自分が大丈夫であると主張してるの?」と訝しがるに違いない。自分で大丈夫を強く主張する人ってきっとそれは強がりで、きっと彼は孤独に打ちひしがれた人物。心に巨大な闇を抱えている可能性もある。今すぐ助けてあげなければならない。日本人は薄情だ。なぜ彼のような人間を放っておくの? 見損なったわ。うふふん。ということになりかねない。

しかしこの「大丈夫です」というのは、諸外国の方々が言うように、時に強がりとも結託する。そして、日本人特有の本音を控えるという性分に、この強がりがジョイントすると、如何せん、トラブルにつながってしまう。

先日、とある交差点で自転車に乗った主婦が信号を渡ろうとすると、左折してきたトラックがそれに気づかず、両者は衝突した。主婦はなかなかの勢いで倒れた。トラックの運転手は即座に車を降り、主婦の元へと駆け寄る。主婦は7割程度の苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと起き上がり、第一声を「大丈夫です、大丈夫です」と言った。

運転手の男は、「救急車を呼びましょう!」と主張する。しかし主婦は、「あっ、大丈夫です」と連呼。男は心配そうに、「痛むところとかないですか?」と尋ねると、主婦は、「ほんとに大丈夫なんで」と男の心配をはねのけた。

こういう場合は、確実に然るべき処置を取ったほうがいい。事故のショックで頭が真っ白になっているのもわかる。交差点で事故に巻き込まれ、周囲の視線が集まっている恥ずかしさもわかる。しかし、運転手と離散してしまった後に痛みが発生するケースも多い。それが後遺症になることもある。それなのに「大丈夫です」を連呼する主婦。日本人というものは、それほどまでに奥ゆかしい生き物なのである。とかく控えめでソフトな主張に留める生き物。これはこれで長所だとも言えるんだけどね。

駅のホームにも「大丈夫です」はあった。忘年会シーズンということもあり、自分のアルコールのキャパシティー以上にお酒を呑んでしまうお調子者も増えてくる。駅のホームにうずくまり、あろうことかホームの地面上に嘔吐するスーツ姿の男子。それを介抱する、口調からして先輩と思しきひとりの女性。男子の背中をさすりながら、「大丈夫?」と心配そうに尋ねる。すると男子は、「大丈夫です」と回答。

どう考えても大丈夫とは思えない。それほどの量を嘔吐し、それほどに悶絶している。しかし、相手が先輩の女性社員ともなると、「大丈夫じゃないです」は言えない。彼にもプライドがあるだろう。身体内の臓物の全てが捻じり上げられるほどに痛んでいたとしても、彼に許されたセリフは「大丈夫です」しか存在し得ない。

日本人ならではの「大丈夫です」の豊かなバリエーションだなぁ、なんて思考し、夜風を浴びながら帰宅していると、クライアントから電話が鳴った。「明日納期の案件だけど、問題なく進行してる?」と。あっ、やばい。今年もよく頑張ったな、なんて一年を振り返り、自分を褒めるだけの甘ったれた愚行にここ数週間の全てを費やしてしまっていて、要の案件に一切着手していなかった。やばい、やばい。どうしよう。そうだ、こんな時こそ言ってしまえ。

「大丈夫です」

なんて魔法のような言葉。それを聞くとクライアントは安心し電話を切った。そして僕は夜風を縫うようにオフィスへと逆戻りした。

『デタラメだもの』

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