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ぬか漬けドロボウとの心理戦

 空き巣に入られた。

 つい先週のことだ。気づいたきっかけはぬか漬けだった。数日前に仕込んだはずのキュウリが、魔法のように消えていたのだ。同じ容器に漬けていたナスやニンジンは無事——。犯人はカッパだと思った。大都会・東京の街中で、空腹のカッパが盗みを働いたのだと私は考えた。

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 ぬか漬けを始めたのはひと月前だった。無印良品のぬか漬けキット。税込890円。野菜を洗って漬けるだけ。その手軽さに惹かれた。
 毎日まいにち、新しい野菜を八百屋で手に入れてぬか床に漬けた。目安ではあるが、キュウリ12時間、ナス16時間、ニンジン24時間と、野菜によって最適な「漬け時間」を探るのが楽しかった。上手く漬けられた日は白米が何倍も美味しく感じるし、逆の場合はビールが妙に苦かった。まるでゲームみたいだと思った。ぬか漬けのベストタイミングを調整するゲーム——。日々のルーティンの中で、7番目くらいに心おどるものとなった。

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 その週——つまり空き巣被害に気づいた週——は、仕事が忙しくお疲れモードだった。家のあちこちに洗濯物が散乱し、シンクには食器類が溜まっている。とてもぬか漬けに気を配れるような状態じゃなかった。
 そのため、数日前に漬けた野菜の存在などしばらく忘れていた。やがて仕事がひと段落し、気づいた瞬間に後悔が込み上げる。野菜をぬか床に漬けすぎると、ひどく酸っぱくて美味しくないのだ。
 うわ、この前の野菜いつ漬けたっけ。たしか5日前くらいだったような…。私はおそるおそる容器を開けた。捨てるのももったいないし、いちおう食べるか。そんな気持ちで茶色い粘土みたいなぬか床に手を突っ込む。予想していた通りニンジンとナスはぶよぶよに膨らんでいた。見るからにマズそうだ。まあしょうがないよな。さて、キュウリは——。

 しかしいくらぬか床をかき回しても、5日前に漬けたはずのキュウリがその中になかった。最初は「いやいや、そんなワケないでしょ」と、微笑していた私の顔が次第にこわばる。うそ? なにこれ。まじで言ってんの? 思わず呟いた。だが本腰を入れてキュウリを捜索してみても、ぬか床の中に緑色の野菜は入っていない。一旦腰に手を当て、鼻から息を吐く。ふと視線をずらすと、まな板の上にはカット待ちのナスとニンジンが転がっていた。

「まさかー。お前らがキュウリ食べたとか言わないよな?」

 話しかけるが、当然返事はない。頭にきたので出刃包丁で真っぷたつに切ってやった。冷静になる。別に、ニンジンとナスに罪はなかった。八つ当たりで彼らの体に刃を入れたことを悔いた。しかしいずれにせよ食べられる運命なのだ。そう自分に言い聞かせた。漬けすぎのナスとニンジンは、予想通り美味しくなかった。

 それにしても——。キュウリの存在だ。なぜ。なぜキュウリは消えた? 5日前に漬けたことは覚えている。それに私は最近家計簿をつけているので、同日にナス・ニンジン・キュウリを買った記録は残っている。すなわちアリバイはあるのだ。にもかかわらず、なぜキュウリだけいない? 私は頭を抱えた。眼鏡の少年が訪ねて来ないかと期待した。しかし現実にそんなことが起きるはずもなく、ただ謎は深まるばかりだった。色々と考えを巡らす。この時点で、可能性は3つあった。

①キュウリは買ったが、ぬか漬けにせず食べたことを自分で忘れている

②キュウリを買ってぬか漬けにしたが、直近5日以内に食べたことを自分で忘れている

③カッパが侵入した

 ③以外ありえなかった。全身に鳥肌が立つ。うそだろ。ネズミや害虫ならまだしも、カッパが家の中に入った——? 私はあわてて家じゅうの戸締りを確認した。窓やドアに、水掻きのある手型が付いてないかもチェックした。しかしカッパが侵入した痕跡はない。一体どうなってるんだ! 私は拳で壁を殴った。解答を導き出せる気がしなかった。

 ……待てよ。そういえば何日か前、ボディソープのボトルを手にしたら軽くなってるような気がした。カッパがシャワーを浴びたのか。確かその日、気温は25度を超えていた。夏日に耐えかねたカッパが、水を求めて民家に侵入し、ついでにキュウリを奪った——。話の筋としては頷けた。それに、私は風呂場の窓にカギを掛けていない。カッパのサイズを知らないが、通れない大きさではないはず。
 ……本当にカッパなのか。足元から寒気が込み上げた。スマホを手にする。11…0、を押そうとして踏みとどまった。まてまて、警察になんて言うつもりだ? 「いやあ、カッパにキュウリを盗まれまして。え? いや姿は見てないですよ。ただ、状況証拠を整理するとそうなるので…。え? 住所ですか。うちの? 今から来る? いやいや、やっぱやめときます」となるのがオチだ。異常者として警察にマークされるのは避けたい。じゃあ、どうしよう。私はパソコンで情報を集めることにした。わからないことは、なんでもGoogleに聞けばいいのだ。

 「カッパ 刑法 適用」

 いやいや、そうじゃない。私は頭が混乱していた。どんな情報を収拾すればいいか整理がついていなかった。落ち着いて考えてみる。そうか、ぬか床をキーワードにすればいいのだ。事件はぬか床の中で起こったのだから。なにかしらのヒントが得られそうだと思った。検索窓にキーワードを打ち込む。

「ぬか漬け キュウリ 消えた」

 検索結果が表示される。しかしピンとくるものがなかった。ううむ、調べ方が違うのか? 私は頭をひねった……。
 そのときだった。突然、電撃のようにアイデアが脳裏に浮かんだ。キュウリが溶けた——? なぜか腑に落ちるものがあった。というのも、以前も同じように野菜を数日間漬けすぎてしまった際、ドロドロの状態のキュウリをぬか床からレスキューしたことがあったからだ。
 うんうん、そのはずだ。というか、それ以外ないだろう。Googleにキーワードを打ち込んで調べる。正解だった。親切なぬか漬け情報サイトによれば、ニンジンやダイコンなどの固い野菜はともかく、キュウリなど柔らかいものは長期間漬けるとべちゃべちゃになり、やがて溶けてなくなってしまうのだそうだ。私は文字を見ながら恐ろしくなった。まるで『ターミネーター2』のシュワちゃんじゃないか。キュウリにとってぬか床とは、溶鉱炉みたいなものなのか——。ぬか床から先っちょだけ飛び出たキュウリのヘタが、立てた親指に思えてくる。

「アイル・ビー・バック」

 私の耳に、カッパの低い声が飛び込んできた……。


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