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個人事業主になり、地獄の名刺を作ってしまった

 仕事をしていれば、名刺が必要となる。

 もちろん特殊な職業に就いている人はのぞく。たとえば芸能人とか野球選手とか(意外と持っているのか?)は、顔が名刺みたいなものだろう。そうした特殊なケースは除外するにしても、基本的に、仕事中に新しい人と出会うときは互いに名刺を交換するのが一般的だと思う。相手の素性がわかったほうが、なにかとスムーズに物事が進むからだ。

 かくいう私も、これまでに2種類の名刺を所持してきた。すなわち、会社員として2社に勤めた経験がある。どちらも入社と同時に「はい、じゃあコレ」と名刺を作ってくれたので、自分でデザインやサイズなどを決めて発注する必要はなかった。お決まりのフォーマットがあったからだ。せいぜい希望としては、数種類の中から色を選べるくらいだった。

ほいでほいで

 私はこの5月から個人事業主となった。4月に前社を退職した後は、区役所で年金や保険関係の手続きを行い、税務署へ「ライター業」として開業届を提出した。他になにか必要なことは……と考えても特に思い浮かばなかった。せいぜい確定申告に備え、レシートをペタペタと貼るノートとセロテープを買ったくらいだ。これで準備は整ったと思った。

 というのも、私に仕事を発注してくれるのはこれまで仕事関係で知り合った人たちで、今さら自己紹介する必要などなかったからだ。電話番号もメールアドレスもすでに交換済み。わざわざ名刺を渡す場面がなかった。そのためひと月ほどは問題なく過ごしていた。

 しかしこの間、新規の仕事先に売り込みを行った。メールで連絡し、その後ZOOMで軽い面談を受け、仕事がもらえることになった。「じゃあ一度来社してもらって、打ち合わせでも……」という提案にも爽やかスマイルで「はい!」と答えた。面談の翌週にその会社に足を運ぶことになった。

早い、安い、許容範囲

 そうしてめでたく、新しい仕事をもらえることになった私に、ある考えが浮かんだ。「あ、名刺持ってないジャン」と。よく考えれば当たり前のことである。誰かが私を雇用しているのではないのだから、空から名刺が降ってくるはずもない。私は焦った。来週までに間に合うか…? 急いでパソコンで検索する。「名刺 すぐできる」。検索結果にはずらりと名刺作成サイトが並んでいた。見出しには「明日届く」や「100枚で500円~」などがあり、名刺業界の薄利多売っぷりを見せつけるような宣伝文句が見受けられた。私にとってはありがたいことである。早くて安いなんて最高じゃないか。色々と調べた結果、1番人気っぽいラクスルで作成することにした。デザインを決めてから入稿までの流れが、わかりやすかったからだ。

縦、横、カラーリング… 

 ところで私はこれまでに、おそらく500パターン以上の名刺を見たことがある。小さな駄菓子屋の店主に始まり、ダイビングのインストラクター、●●市観光協会職員、中小繊維メーカー社員、大手広告代理店社員、NPO法人の代表、芸能事務所のマネージャー、冒険家、カメラマン、スタイリスト、デザイナー、ライター、ヨガの講師、ビール工場の工場長、化粧品会社のPR担当、煙草メーカーの流通部社員など、その職種は多岐にわたる。

 私は人の名刺を見るのが好きで、好みのデザインがあると「かっこいいですね」と相手に言うようにしていた。言われて悪い気がする人はいないだろう。みんなやや照れた顔で「そっスカ?」と後頭部を掻きながらも誇らしげな顔だった。私もあの顔になりたいと思った。ラクスルでイケてるデザインフォーマットを探す。シンプルでありながら、エッジの効いたデザインはないか。できれば縦がいい。私の経験上、イカす名刺を持っている人はみんな縦型だった。しかも小型。通常の名刺よりもひと回りほど小さく、小ぶりながらも主張するデザイン――。

 しかし「100枚で500円~」コーナーには、私のお気に召すデザインはなかった。ま、そりゃそうか。あのカッコイイ名刺を持ってる人たちは、きっと知り合いのデザイナーとかに頼んでオーダーメイドを作っているのだから。一瞬で諦めた。変なデザインでなければヨシ! と方向性を変える。ちょうどいいのが見つかった。職業、名前、住所、電話番号、メールアドレスを記入し、簡単なデザインが完成する。さて、これで発注…と。しかしボタンをクリックすると、「裏面のデザインが選択されていません」と表示された。う、うらめん? 私はしばらく考えを巡らした。裏面、裏面…。名刺の裏面って、なに書いてあったっけ?

 以前の会社の名刺を思い浮かべる。ああ、英語だ。表面を英字表記にした情報が、名刺の裏面に記載してあったのだ。さて、自分はどうしようかと思った。英字を載せてもいいけど、実用性はゼロである。私は可能ならば、自宅から半径2kmの範囲で仕事をしたい。外国に行く予定などないし、おそらく英語を用いて文章を書く仕事などない。だから…白紙でいっか? そんな考えが浮かぶ。

 だが裏面のデザインを追加したところで料金は変わらないのだ。私のケチ魂に火がついた。じゃあなにか書く? でもどうしよう。必要な情報は表面に書いてあるし…。そのときいいアイデアが浮かんだ。猫だ。猫ちゃんを名刺の裏面に配置してしまおう、と。急いで猫シルエットをダウンロードする。ラクスルのサイトでそれを配置し、裏面のデザインが出来上がった。そこそこ満足できる感じだった。

蛇足、悪手、余計なこと

 しかしなにかが足りないと思った。空白が多いのだ。ふむ、なんとなく寂しいな…。じゃあホームページのQRコードも追加するか。個人事業主になったのをきっかけに、自分のホームページを作成してあった。裏面に小さく配置する。くくく…これは隠れミッキーみたいで面白いだろう。猫の脚の間にQRコードを配置した。私の名刺を受け取った人が、ふと裏面を見て、「あれ、なにこのQRコード。読み取ってみるか。ポチっとな。……え、ホームページ? なにこの人! シャレてることする人! 素敵な名刺ですわ~」と楽しんでくれる姿を想像した。ウキウキ気分になってくる。そうして発注を済ませた。翌々日には名刺が郵送されてくるとのことだった――。

反省、後悔、頭が悪い

 2日後に名刺が届いた。はやる気持ちを抑えて袋を開封していく。クリアケースにきちんと収納されていて、安いのに信頼できるメーカーだと思った。ケースを開ける。表面、ヨシ! ポップな黄緑色を選択したのだが、ばっちりデータ通りに印刷されていた。お次は裏面…と。名刺をめくる。猫ちゃんが可愛らしく配置されていた。裏面もヨシ! じゃあ一応、猫の脚の間にあるQRコードを読み取るか…。スマホをかざす。あれ、おかしい、QRコードが、読み取れない……。

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サイズ☝と裏面の全体デザイン。比較対象はアップルウォッチ。

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猫と脚の間のQRコード…。

 何度もトライする。しかしいくら試しても、猫の脚の間にあるQRコードは読み取れなかった。嘘だろ…。思わずつぶやく。隠れミッキーみたいにアトラクションとして配置したQRコードが、読み取れないだと。目立たせたくないがゆえに小さくしすぎた。私は、読み取れないQRコードを名刺に印刷してしまったのだ。しかも100枚。地獄の名刺である。これをまじで、仕事相手に渡すのかと思うと笑えてきた。仮に相手がその場で気づき、「え、猫好きなんですか? 可愛いですね。…これは? なにこれ。もしかしてインスタのアカウントとかですか?」などと聞かれた日には、苦笑いで返すしかない。読み取れないQRコードを名刺に印刷する人間など、自ら仕事が出来ないと発表しているようなものだ。はあ、どうしようこれ。もういっそのこと黒く塗りつぶしてしまおうかしら……。ため息が出た。

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