- 儀式 -【短編小説】
きっかけは、アイリが見つけてきた一冊の本だった。
高二の夏休みも大詰めの、8月24日。神野あやは、瀧本アイリ、野田律子、大村果穂といういつものメンバーで市立図書館に来ていた。まだ半分ほど残ってしまっている宿題を、みんなで分担して一気に片付けてしまおうという魂胆である。
もっとも、この日のメインイベントは、アイリの家でのお泊まり会だった。アイリの両親が今夜から旅行に出かけて留守なので、気がねなく四人で騒げるのである。
それを心おきなく楽しむためにも、宿題にメドを立てておきたい、というのが、四人がわざわざ図書館まで出向くほどやる気を見せているホントの理由であった。
閲覧室は図書館の二階にあった。ガランとした空間に、衝立で仕切られた机がズラリと並んでいる。夏休みだというのに図書館は思いのほか空いていて、四人は分担を決めるとそれぞれ仕切りのついた机に座り、テキストを広げた。
宿題をはじめて一時間ほど経ったころ、あやの目にアイリが席を立つのがチラッと見えた。あやは、また始まった、とクスリと笑った。みんなでテスト勉強などをしていると、いつも最初にやめようと言いだすのは決まってアイリだった。
あやはときどき、アイリが羨ましくなるときがあった。可愛くてスタイルもよくて、運動神経も抜群。いつも自信にあふれていて、クラス、いや学年でも中心的存在だ。
成績の方はぱっとしないが、その涼しげな目元には知的な光りが宿っていたし、アタマの回転も早かった。何者にも縛られない奔放な性格や行動も、「ワガママ」とか「高飛車」とか一部で陰口を叩かれることもあったが、子どもの頃からいつも周囲の目を気にして「いい子」「普通」でいたあやには眩しく映るのだ。
そんなアイリが自分と仲良くしていることに、あやは時々違和感を覚えることがあった。
あやはとりたてて美人というわけでもなく、頭がいいわけでもない、どちらかといえば目立たない存在である。クラスメイトには、アイリと仲良くしている子、という認識しかされていないだろう。言ってみれば、アイリという太陽の光を受けて初めて輝くことができる月のようなものだ。決して自分で光を発することはない。
そう考えだすと、とたんに不安に教われる。もしアイリがいなくなったら、自分という存在はどうなってしまうのか…。
アイリとは高一のとき同じクラスになり、たまたま席が前後ろだったおかげで話すようになった。特に気が合うとか趣味が同じとかいうわけではないのだが、いつの間にか、いつも一緒にいるのが当り前になっていた。律子と果穂も、同じく高一からのクラスメートだ。
四人はいつ崩れるともわからない、曖昧な関係なのではないのか。あやはそんなことをずいぶん前から思っていた。ただ、あまり深く考えると怖くなってしまうので、なるべく考えないように意識していた。しかし時々、何かの拍子にそのことが泡沫のように頭の中に浮かんできてしまうのだ。
「面白そうなもの見つけたよ~」
弾むようなアイリの声で、あやの考え事は中断された。見ると、何かを手にぶらぶらさせながら、嬉しそうに歩いてくるアイリの姿があった。
「も~、宿題やんなよ~」
笑いながら律子が言う。その顔にはやはり、また始まった、という表情が浮かんでいる。
「人間の集中力はそんなに長く持たないんだって」
へへっと照れたような笑いを浮かべて、アイリが屁理屈を言う。ちょうどみんな、宿題に飽きてきたところである。周囲に誰も座っていなかったあやの机に三人が集まってきて、アイリの言う「面白そうなもの」を見ることになった。
アイリから渡されたそれは、一冊の古びた本であった。
大判サイズのその本は、長い年月で紙は薄茶色く変色し、ページのところどころに細かなシミがこびりついている。表紙には「心霊を呼び出す20の方法」と記されていた。タイトルの脇では可愛くデフォルメされた制服姿の女の子が、人差し指を立てて「超実践!」とアピールしている。そのポップなデザインと古びた雰囲気がミスマッチで、あやは少し笑ってしまった。
この手の本はあやも好きで何度か読んだことがあった。ただこの本は、心霊体験や心霊写真が載っているというオーソドックスな心霊本ではなくて、いわゆる「コックリさん」や「イタコ」など「霊を呼び出す」ということを中心にしたものであった。
本に浮かんだシミがまるで意思を持っているかのように感じられ、内容に妙なリアリティを与えている。
「やだ、コワイよ」
「アタシこーゆうのダメなんだけど~」
感想を口にしながら、四人はページをめくっていく。なんだかんだ言いながら、この手の話はみんな大好きなのだ。それに宿題でくたびれたアタマを休めるには最適だった。
本には古今の様々な「心霊を呼び出す方法」が、手順はもちろん使う道具やその作り方まで、事細かに解説されている。
さすがタイトルに「超実践」と付いているだけはある。あやは変な感心の仕方をした。
「ねえ、これ、やってみようよ」
そう言い出したのは、やはりアイリだった。彼女は人一倍好奇心旺盛で活発な性格である。当然、そう言いだすであろうことは、あやには容易に想像できた。しかも四人のなかでは、アイリの提案は決定とイコールであった。
「まじで~?」
「なんかヤバくない?」
一応、律子と果穂が抵抗を試みる。しかし二人にも、結局はアイリの提案を受け入れることになるのはわかっていた。この反応は通過儀礼のようなものだ。
「ダイジョーブだよ。アタシ一回やってみたかったんだよね」
もともと今日は、アイリの家でお泊まり会の予定だ。その余興にはピッタリではある。
「え~でも~」
「呪われたりしないのかな、これ」
笑いながら、律子と果穂がさらなる抵抗を試みる。と、
「んおっほん」
思わず声が高くなっていく四人の耳と目に、三つ離れた机に座ったおじいさんの咳払いと咎めるような視線が刺さった。アイリは肩をすくめて唇に人差し指を立てると、ささやき声で悪戯っぽく笑って言った。
「やっぱ夏は怪談でしょ」
アイリのこのひと言で、今夜のお泊まり会は「コックリさん大会」に決定したのだった。
***
ろうそくの青白い炎に照らされたアイリの顔は、はっとするほど美しかった。
あやは正面に座るアイリに見とれ、ため息をもらした。ゆらゆらと揺れる炎が、そのたびアイリの顔にくっきりとした陰影をつける。その美しさは神秘的ですらあった。
時間は夜の十時を回ったところだ。アイリの部屋では、全ての準備が完了していた。部屋の明りは消され、赤いフレームに透明のガラス板が嵌ったローテーブルには、マス目の書かれた画用紙が一枚と、火のともったろうそくが四本、そして十円玉が一枚置かれていた。図書館で見つけた本に書かれている通り用意したものだ。そしてそのローテーブルの四辺に、あやたちは一人ずつ座っている。
アイリが立ち上がって、窓を開ける。アイリの部屋は二階にあり、東向きに窓がついている。本によれば、その開け放たれた窓から霊が入ってくるらしい。その霊が十円玉を動かし、マス目に書かれた五十音のひらがなと「はい」「いいえ」の文字をなぞって質問に答えてくれるというのだ。
実のところあやは、幽霊だのオカルトだのにそれほど興味があるわけではない。無論、コックリさんを本気にしているわけでもなかった。しかしアイリの真剣な、その美しい顔を見ていると、霊の存在だろうが何だろうが信じてしまいそうになる。炎の向こうで揺れるアイリの顔は、それほどの妖しい魅力があった。
「…始めるよ」
いつもとは違った、押し殺すような声でアイリが言った。その瞬間、あやの右隣りに座った果穂の喉がごくんと鳴る。あやの心臓も、いつもの倍くらいの早さで脈打っていた。
四人は無言で、十円玉にそれぞれの人さし指を重ねた。十円玉は、紙に描かれた鳥居のようなマークの上に置かれている。この十円玉を霊媒、つまり霊を降ろす場所にするのである。
「コックリさんコックリさん、おはいりください」
アイリが本の通りに呪文を唱える。それをあや、律子、果穂が復唱する。
「コックリさんコックリさん、おはいりください」
ひと呼吸おいて、アイリが続ける。
「お入りになりましたか」
一瞬の沈黙の後、四人の指を乗せた十円玉が少しづつ右に滑っていき、「はい」と書かれた位置で動きを止めた。
あやは目を疑った。もちろん指に力など少しも入れていない。他の三人も、目に驚愕の色を浮かべて十円玉に見入っている。
少しの沈黙の後、「何か質問して」というようにアイリが目配せする。
「あ、あたしのお母さんの…名前を教えてください」
合図を受けて、果穂が恐る恐るそう尋ねる。するとまたしても十円玉が画用紙の上を滑り出した。
「さ」「き」「こ」
あやはゾクリと、背中に悪寒が走るのを感じた。果穂の母親は、確かに咲子といった。果穂はあやたちに母親の愚痴を言う際、「ウチのサキコがさぁ」などと母親のことを名前で呼ぶのでみんな知っていた。
誰より驚いているのは尋ねた本人の果穂だろう。額にうっすら汗が浮かんでいる。
「あやの家で飼ってる犬の名前は」
「ら」「ぶ」
「高一の時の担任の名前は」
「た」「か」「は」「し」
アイリと律子の質問にも、十円玉は完璧に答えた。あやたちはもはや、目の前の十円玉に何者かが乗り移っていることを信じるよりなかった。
「じゃあ…うちの学校で一番嫌われているのは誰ですか」
ひとしきり事実を確認するような時間が過ぎた後、アイリが質問の方向性を変える。
「の」「た」「゛」
「やっぱり!」
四人の表情が一気にゆるんだ。
野田とはあやたちの学校の生活指導をしている数学教師だ。指導と称しては女子生徒に触るセクハラ教師として、生徒の間で嫌われている。特にアイリは野田のお気に入りらしく、いつも何かと難癖をつけられている。
もっともアイリのほうが一枚上手で、いつもさらりとかわしているのだが。
アイリのこの質問で調子の出てきた四人は、次々といろいろなことを十円玉に尋ねていく。
「2組の今井さんと野村くんて付きあってるの?」
「4組の篠田はゲイって噂、本当ですか?」
「木村先生ってやっぱりカツラなの?」
質問の度に、四人に笑いがこぼれる。もはや恐怖はなかった。
笑いながら、あやの心の中では、ある考えがぐるぐると回っていた。それは、同じクラスの田中充俊のことである。
田中はサッカー部のエースで、その爽やかな風貌も手伝って校内でも一、二を争うぐらいモテる男子生徒だった。そして、あやにとって最も気になる存在であった。「好き」だなどと考えるより先に、気がつくと田中を目で追っていたりする。それを自覚したのはもう半年も前だ。
田中はアイリと仲がよかった。二人は誰が見てもお似合いのベストカップルで、あやは最初から、田中のことを好きだと考えるのをやめていた。
アイリはいつも「別に付き合ってるわけじゃないから」と否定するのだが、そうやってアイリが否定するたび、あやは敗北感に打ちのめされ、自分が田中のことを好きなのだと気付かされる。そしてアイリを羨ましいと思う自分がどうしようもなく情けなくなるのだ。
そう、あやは田中のことが好きだった。今まではアイリの手前、おくびにも出さなかったが。しかしこの夜の奇妙な空気が、普段は遠慮がちなあやを大胆にしていた。
私がもしも今、「田中くんの好きな人は誰?」と聞いたら…。
コックリさんは何と答えるだろう?
アイリはどんな顔をするだろう?
そして何より、田中は誰のことが好きなんだろう?
もう、あやにはその衝動を止めることはできなかった。質問がとぎれ、一瞬の静寂が訪れると、あやははっきりとこう言った。
「サッカー部の田中くんの、好きな人は誰ですか?」
一瞬、ぴくりとアイリの表情が変わったように見えた。
おそらく律子と果穂は気付かなかっただろう。そのくらい微妙な、正面に座っていたあやだから気付けた一瞬の変化だった。
その瞬間のアイリの目は、こう言っていた。「は? なんであんたが聞くの?」と。「あやのくせに」とそう言っていた。
怒りと蔑みを込めたその目に、あやは寒気を覚えた。
一瞬の間を置いて、四人の指を乗せた十円玉が再び滑り出す。先ほどよりも力強く感じるのは、あやの気のせいだろうか。
そして十円玉はまず、「あ」を指した。
ほんの一瞬、あやの心臓がトクンと高鳴る。
しかし、次に十円玉が「い」を指した瞬間、その高鳴りは消えてなくなった。
あぁ、やっぱりアイリなんだ。あやはそう思った。と同時に、激しい悔しさに胸が震えるのを感じた。
イヤダ。
クヤシイ。
ヤメテ。
指先が次の十円玉の動きを感じたとき、あやは無意識に指先に強く力を込めていた。
ぴたり、と十円玉の動きが止まる。
あやはそのまま指に力を入れ続けた。あやにとって常に羨望の対象であるアイリへの、初めてのささやかな抵抗だった。
「ちょっと、あや」
怒気を含んだ声に視線を上げると、燃えるような目であやを睨みつけるアイリの顔があった。
「指に力、入れてるでしょ」
その声はいつもの冗談めかした調子ではなく、真剣そのものだった。アイリは立ち上がって続ける。
「ねえ、どういうつもりよ、さっきから。あんたまさか、田中のこと好きなわけ? そうでしょ、だから、あたしが選ばれるのが気に入らないんだ」
アイリはせせら笑うように言った。目はあやをまっすぐ見据えている。その表情はいつもの美しいアイリのそれではなく、怒りに醜く歪んでいた。
律子と果穂は凍りついたように、アイリを見つめたまま動けない。
「ふ~ん、あやがねぇ…。自分の立場、わかってないんじゃないの?」
アイリの言葉と感情はどんどんエスカレートしていくようで、初めて見る酷薄な表情が浮かんでいた。
「バカみたい。あんたなんか相手にされるわけないじゃない。私が仲良くしてあげてるからって、勘違いしないでよ!」
バチンッ!
あやはとっさに立ち上がり、アイリの頬を思いきり打っていた。
アイリはへなへなと、その場にへたりこんだ。信じられないといった表情で、赤くなった左頬を押さえてあやを見ている。
なにより自分の行動に、あや自身、驚いていた。アイリの言葉に腹を立てたわけではない。ただ、無性に悲しかった。早くこの場を立ち去りたかった。
「私、帰るね…」
あやは自分の荷物をつかむと、アイリの顔も見ずに部屋を後にした。
***
九月。
二学期が始まってもう二週間が過ぎたが、まだまだ残暑は厳しかった。抜けるような青空の中、葉の薄くなってきた木々にしがみついてセミたちが最後の声を振り絞っている。
放課後、あやは三階の教室の窓から校庭を見下ろしていた。その視線の先に、腕を絡めて歩くカップルが映っていた。アイリと田中である。
夏休みが明けてすぐ、アイリは田中と正式に付き合いだした。このことは学校のちょっとしたニュースになっている。
あの夜の一件から、あやはアイリたちと話さなくなっていた。それでも今、あやの胸には後悔もわだかまりもなかった。
あやは夏休みのあの夜から、その瞬間に感じた悔しさ、悲しさ、不安、それらの感情についてずっと考えていた。
なんでアイリを叩いたりしたんだろう。そんなに田中のことが好きだったのだろうか。それともアイリに見下されてたのが許せなかった? 霊か何かに操られてたとでも?
そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。
でも、とあやは考える。あれは、自分自身と向き合うために必要な儀式だったんじゃないだろうか。アイリというフィルターを通さない、本当の自分を見つけるための。
あやは夏休みの最後の日に、そう思うことに決めた。
「さて、と」
あやは校庭の二人から目を離して立ち上がると、少し短めにしたスカートの裾をひるがえして、教室を出た。
その顔には、その日の空のように晴れやかな表情が浮かんでいた。
(了)
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