見出し画像

第一回 オカルトとカルトの違い

オカルトとカルトの捉え方

 皆様、お久しぶりです。東郷です。初回のご挨拶の投稿記事から随分と時間が空いてしまいました。投稿したい内容がいくつかあるとはいえ、のらりくらりと更新ができず今に至ります。今後は継続して投稿癖を養えたらと思います。記念すべき第一回目の投稿は、ずばり「オカルトとカルトの違い」について。

 一九九五年(平成七年)三月二十日、宗教団体オウム真理教が、東京都の地下鉄車両内で起こした地下鉄サリン事件は、死者十数名、負傷者六千名以上の被害者を生み、月曜日の朝のラッシュアワーを混沌に陥れた。
 事件当時も現在も、マスメディアや世論の反応を注視すると、私は、この事件はカルト教団であるオウム真理教によって引き起こされたテロと位置づけている節があるように思う。私も同意である(オウム真理教 | 国際テロリズム要覧について | 公安調査庁 (moj.go.jp))。
 しかしながら、日本国憲法が保障する信教の自由などの権利との整合性をどのように取るのか、再発防止に努めるかといった課題は今なお残っている。宗教や信仰は途切れることはないと考えるべきだ。

 この事件以降、カルトと近接であるオカルト領域にまで警戒の意識が働き、オカルトをエンターテインメントとして楽しむことすら忌避されるようになってしまったのか、マスメディアではオカルトを扱うコンテンツは勢いを失った。
 霊能者の宜保愛子や超能力者といわれたユリ・ゲラー氏が世間を席巻したのは、主に一九七〇~八〇年代だが、この時代はオカルトに対する風当たりはそれほど強くなく、テレビ番組で懐疑的な立場からの検証もあり、娯楽としても世間が受け入れていた。日本テレビ『あなたの知らない世界』や『木曜スペシャル』などが良い例だ。
 その後、マスメディアがオカルトというジャンルを深掘りしない少しの冷却期間を経て、フジテレビ『ほんとにあった怖い話』がテレビドラマのシリーズとして継続的に放送されるようになるなど、少しずつオカルトを娯楽として楽しむ余裕が復活してきた。

 オカルトとカルトの違いをどのように定義して説明すべきか。
 まずはオカルトについて考えてみたい。「オカルト」は英語で〝occult〟と表記する。日本語での意味は「超自然的な力、神秘、隠す」などであり、人間の理解を超越した目に見えないものと理解できる。
 先述したオウム事件で触れているため、繰り返しの定義付けとなってしまうが、まず、オカルトとは娯楽、英語でいうところの〝entertainment〟(エンターテインメント)の範疇である。
 例を挙げて考えてみよう。遊園地やテーマパークでは、お化け屋敷が施設内に設置されていることが多いが、非科学的なものを否定、撤廃したい人々や科学者が、お化け屋敷の前で声高に「お化け屋敷反対!」とデモや抗議の集会を起こしている様子は見たことがないだろう。街中でも反対派が行進している光景を私は見たことがない。
 考えてみれば、まずお化け屋敷は施設と利用者との間で入場料という名の金銭のやり取りがあり、恐怖を体験する、煽られるという構図である。しかし、お化け屋敷を出るころには入場者は「いやー怖かった!でも楽しかったねー!」と笑顔で帰っていく。
 私はこれこそがオカルトの本来のあるべき姿だと考える。そして、この娯楽として恐怖と向き合うという本質を多くの人が理解しているからこそ、お化け屋敷がカルトだとか危険分子とされないのだと思う。

 二〇二二年(令和四年)七月八日、元内閣総理大臣の安倍晋三が選挙応援の演説中に銃撃され死亡した。事件当時、実行犯である山上徹也被告は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に恨みがあり、安倍元首相と団体に繋がりがあるとの判断から犯行に及んだ。
 この事件以降、「霊感商法」という言葉が独り歩きしており、オカルトとカルトが再び入り乱れたように私には映る。もともとオカルトに興味のない人からすれば無理もないかもしれない。
 全ての動物が霊的な体験をするわけではない為、「商法」よりもインパクトが強くて不思議な意味を含む「霊感」という言葉に、とにかく不気味で悪い印象が付いてしまうことは残念だ。そして、またしてもオウム事件以降に起きた「オカルトに触れづらい」風潮が発生してはいないか、と危惧しているが、今のところオウム事件以降ほどの忌避はなさそうだ。オウム事件が発生した時代と異なり、事件前から特定の宗教団体がマスメディアから強い関心を持って取り上げられたり、登場していないことが要因としては大きいのだろう。

 こうしてオカルトとカルトの違いを考えてみると、オカルト村の住人はいつも楽しく不思議な世界を考察、分析しているのに対して、突如、カルト村の住人がオカルト村を荒らしにやって来てしまい、世論を混乱させているように思う。健全な判断能力を持ったオカルト村の住人がカルトを盛り立てるという構図ではなく、オカルトが自粛傾向になるのはカルト村の住人があわよくばオカルトという娯楽を自分たちの陣営に引き込もうとしてしまうことがきっかけではないだろうか。それが特定の思想を持った人物や宗教団体であれば猶更、共感を武器に信者と勢力の拡大に繋がる為に、動機となってしまうメカニズムは理解できる。

 ここで、私が考えるオカルトとカルトを区別して適度な距離感を保つための基準を三つ示してみたい。断っておくが、私は実際に危険なカルト側の人間と接触した経験は自覚症状としては一切ない。つまり以下は全てオカルトとカルトの歴史を遡って分析した、より良いオカルト人生を楽しみ歩むための知恵であるという程度に思っていただきたい。

 一つに、「継続性があるかないか」。これはつまり、一度だけではなく、対面や金銭の追加の要求を、「あなたを救ってあげる、寄り添う又は何かを解決してあげる」という口実で相手から受けているかどうかである。定期的な接触を求められるかどうかと言い換えることもできるだろう。実際に金銭のやり取りがなくても、接触を求められる連絡が頻繁にある場合も要注意だ。
 二つ目に、「高額な金銭のやり取りが発生しているかどうか」である。何をもって高額と判断するのかは難しいが、例えば、心理カウンセラーや学問として占いを生業にしている人たちが、三十分や一時間でどれだけの価格設定であるかなどの相場を比較してみれば良いだろう。また、当事者の資産がどれだけあるかを配慮せず、金額だけを一方的に言い放つような相手には警戒したほうが良い。
 三つ目に、「私以外の言うことは聞くな、私の言うことは全て正しいという圧力を与える者」である。セカンドオピニオンという言葉があるが、悪徳な霊能者やカルト信者などのカルト側の人たちは、金蔓だと判断した自分にとっての優良な顧客を逃したくないと考えるのは自然なことだ。
 だがその一方で、「取れるところから取れれば良い」と考えて継続性も高額な金銭も要求しないカルト村の住人もいるかもしれない。勧誘もなく陣地を構え、そこに飛び込んできた人に漬け込む作戦もあるだろう。この手口は積み立て預金のようなものだ。残念ながら、このような場合は見極めが難しいが、まずはこれまでに示した三つの基準を参考にして頂ければ良いかと思う。

 ここまでオカルトとカルトの違いについて考え、定義付けをしてきた。オカルトは常にカルトとの境界線上で綱渡りをしているという自覚を持つべきである。カルト側に引っ張られるようなことがあれば、すぐに体勢を崩して沼に落ちてしまう。皆さん、今後のオカルト人生を豊かに、健全に楽しみましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?