東京大学2005年国語第1問 『哲学入門』三木清
著者の三木清は戦前の哲学者であり、『哲学入門』は1940年に発刊された古い著作である。近年の東大現代文ではこのような古い文献が出題されることはあまり多くない。
三木は終戦の年に治安維持法違反の容疑者に対するほう助の容疑で拘留され、終戦の1カ月余り後に獄死した。収監中に疥癬にかかり、それが極度に悪化したにもかかわらず、手当らしい手当を受けられず、非人間的な境遇のなかで悶死したといわれる。
本問題文は、堅牢かつ整然とした論理によって組み立てられている。しかし、内容と文体は抽象的かつ硬質であるため、すらすらと読めるものではなく、精読を要する。
特に、設問(三)および(四)に関する部分は抽象性が高く、具体例が乏しいため、読解も、また解答の表現にも苦慮させられる。その分、設問(四)が解けさえすれば、設問(五)についての理解は容易であり、美しく整った解答を作るのにそれほど苦労しなくてもすむだろうと思われる。
(一)「人間のすべての行為は技術的である」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
傍線部アの直前には「かくて」とあるので、その直前の文である「人間はつねに環境のうちに生活している」がその理由となる。しかし、これだけでは飛躍があるので、その間を結ぶ要素を加えなければならない。
傍線部の次には、「我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである」とあるが、これは「人間はつねに環境のうちに生活している」と類義であり、続く「単に能動的なものでなく、同時に受動的なものである、単に主観的なものでなく、同時に客観的なものである。そして主体と環境とを媒介するものが技術である」点こそが核心である。
以上から、「人間の行為は能動的、主観的である一方、環境に規定される受動的、客観的なものでもあるため、主体と環境とを媒介する技術が必ず関連するから。」(67字)という解答例ができる。
(二)「徳を有能性と考えること、それを力と考えること」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
傍線部イの内容を言いかえたものが、その直後の「行為は単に意識の問題でなく、むしろ身体によって意識から脱け出るところに行為がある。従って徳というものも単に意識に関係して考えるべきものではない」である。
そして、その理由となっているのが、傍線部の直前にある「人間の行為はつねに環境における活動であり、かようなものとして本質的に技術的であることを思うならば」である。
また、そもそも徳と行為の関係については、第1段落に「徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳は何よりも働きに属している」とあった通り、行為が本質的に技術的であるのと同様、徳も本質的に行為なのである。
以上から、「徳は環境における技術的活動という本質を持つ行為であるため、それを単に意識の問題としてではなく、客観的な能力として捉えるということ。」(65字)という解答例ができる。
(三)「技術的であることによって人間の行為は表現的になる」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
傍線部ウを含む第4段落では、社会・文化の技術的性質を述べている。特に傍線部は礼儀作法について述べている。
「独立な主体と主体とは、客観的に表現された文化を通じて結合される。主体と主体とはすべて表現を通じて行為的に関係する」とあり、主体と主体を結合し、関係を築く手段が文化であり、表現であるとされている。そしてその具体例として、挨拶という言葉の技術に続き、礼儀作法という具体的行為の技術があげられている。
また、傍線部の後に「礼儀作法は一つの文化と見られるが、一切の文化は技術的に作られ、主体と主体との行為的連関を媒介するのである」ともあり、礼儀作法が人間同士の行為的連関を媒介するものであるとしている。
以上から、「礼儀作法という行為は、技術的に適切な様態で行われることで、客観的に人間同士の行為の連関を媒介する文化的表現となるということ。」(62字)という解答例ができる。
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