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東京大学2016年国語第1問 『反知性主義者たちの肖像』内田樹

 東大による出題が賛否両論を呼ぶこととなった「問題」文。
 この年の入試が行われた2016年2月時点、ドナルド・トランプはその年のアメリカ合衆国大統領選挙の有力候補の一人にすぎなかったが、7月に共和党候補となり、11月、大方のメディアが批判的報道を強めるなか大統領選挙に勝利した。そして、大統領としての4年の任期中も、再選を期した選挙に敗れた後も、「反知性的」とされる言動を繰り返すことになる。その出現に先がけた出題であり、ある意味、予言的だったといえる。
 しかし、実は私個人としては、この問題文は、得心がいくものでも、腑に落ちるものでも、気持ちが片付くものでもない。しかし、現代文の問題である以上、筆者の論理に寄りそい、筋道のとおる解答をつくっていくしかない。

問題文はこちら

(一)「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人」(傍線部ア)とはどういう人のことか、説明せよ。
 傍線部アは「知性的な人」の定義とおぼしきものである。
 まず、「そのような身体反応」とは、「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片づいたか」ということについて「自分の内側をみつめて判断する」ことと考えられる。(「身体」に関係するのは慣用句の一部である「腑」だけなので、なぜ「身体反応」といえるのかは不明である)
 そして、その「身体反応」は、「他人の言うこと」を「とりあえず黙って」聴き、「自説に固執する」ことなく、行うものである。
 次に、「さしあたり理非の判断に代える」は、当面は上記の「身体反応」を優先し、理非の判断を保留するという意味だと解釈できる。
 さらに、「他人の言うこと」によって、あるいはそれに対する「身体反応」によって、「単に新たな知識や情報を加算」するのではなく、「自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替え」るという要素が加わる。
 以上から、「他者の主張を、自説に固執せずまずは傾聴し、自分が納得したか省察しながら当面は理非の判断を保留したうえで、自分の知的枠組みを刷新する人。」(67字)という解答例ができる。

(二)「この人はあらゆることについて正解をすでに知っている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
 傍線部イの「この人」はいうまでもなく「反知性主義者」である。
 そして、「あらゆることについて正解をすでに知っている」は、「あらゆることに」すでに自分なりの主張を持ち、しかも、その自説の「真理性」について、他者の主張によって「いささかも揺らがない」絶対の自信を持っているということである。
 これは、設問(一)の解答の趣旨とは正反対のあり方であるため、反知性主義者は自説を絶対に正しいと考えるだけでなく、自己の知的枠組みについても絶対視し、刷新の必要を認めていないと考えられる。つまり、「あらゆることについて」とは、見解だけでなく知的枠組みも含むと考えるのがより深い解釈である。
 そして、その自信がどこから来るのかというと、「しばしば恐ろしいほどに物知り」だからであり、「一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる」からである。
 以上をまとめると、「反知性主義者は、すでに万事に関し広い知識と強固な根拠を持つため、自己の見解と知的枠組みの正しさに絶対の自信を持っているということ。」(65字)という解答例ができる。

(三)「『あなたには生きている理由がない』と言われているに等しい」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
 傍線部ウは、「『あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない』ということ」を主語とする文の述語である。したがって説明にあたっては、この主語の趣旨も明示する必要がある。
 さらに、この主語は、少し前に述べられている「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」という宣告の要約である。
 「生きている理由がない」と言われていると感じるのは、「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた」というように「理非の判断」の主体となることを否定されるとともに、「私」の判断の当否にまったく影響を及ばさないと言われるからである。
 筆者は、第6段落で、知性は「集団として発動するもの」と述べ、第9段落で、「ある人の話を聴いているうちに」「それまで思いつかなかったことがしたくなる」ことを「知性が活性化したことの具体的な徴候である」とし、そのような「かたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力」と知性を定義づけている。
 その観点からすれば、理非の判断を許されなかったり、自分の言動がいささかも相手の理非の判断に影響しないと言明されることは、知性が発動するとされる集団に所属する意味を否定されることになるのである。そのことは、知性的に生きようと志向する人間にとって存在意義を無視されたのと同じことになるだろう。
 以上から、「相手に代わって理非を判断し、その判断は相手に影響されないと告げることは、相手を集団から排除し、その存在意義を無視するものだということ。」(67字)という解答例ができる。

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