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娘の家庭学習を通して「努力の在り方」を見つめ直す

今年、娘が小学校に入学してからというもの、私は熱心に娘の勉強を見るようになった。これまでがあまりに放任すぎたのかもしれないし、本人がやる気になるまで待てばよいと、無理強いをしてこなかったのもある。

案の定この夏休みには、早速補習に呼び出され、先生との面談でも学習面について指摘を受けた。

そんな娘のことが心配で、みっちり勉強に付き添うようになった私は、子育ての第2ステージに足を踏み入れたような気分だ。その中で、自分に刷り込まれてきた思考や、固定観念みたいなものを見直す作業をしている。

私が焦って娘に勉強を教えているのは、結局のところ、娘に落ちこぼれて欲しくないからだ。そして、「できない」ことに劣等感を感じて、自己肯定感の低い子に育ってしまうんじゃないかと、そのことを恐れている。冷静に自分自身を分析すると。

だけど娘は、勉強ができないことに劣等感など感じていない。夏休みの補習に呼び出されたところで、むしろ好きなお友達と話ができて楽しいと、喜んで出かけて行くし、ゆっくりじっくり先生に教えてもらいながら、彼女なりのペースで楽しんで学んでいるようだ。

またあるときには、授業参観で算数の問題が解けず、ポツンと孤立している娘の姿を目にしたことがあった。その姿に胸を痛めたのは私だけだったようで、帰宅後、本人は驚くほど気にしておらず、「仕方ないさ」と、どうでもよさげにお菓子を食べていた。

じっくり・ゆっくりタイプの娘が周りのスピードについていけるかどうかを親の私はいつも心配している。

結局は、人との比較なのだ。そのことばかりに気をとられて、娘の気持ちを無視してしまうことがある。

私はできない壁にぶち当たると、よく不貞腐れてしまう子どもだった。大人になってからも自分に対する期待値が高く、理想と現実のはざまで思い悩んでしまうことがしょっちゅうある。

しかしその点、娘はいつも等身大だ。見栄っ張りで意地っ張りな私とは違う。できないことがあっても、決して他人と比較せず、自分のペースでやり進める。できないからと落ち込んだりもしない。「私は私」、そんな強さがある。

しかし親の私に少しでも「できない」と言われると、激しく傷ついてしまう。子どもの自己肯定感は外の世界ではなく、家庭内でこそ育まれるのだと気付かされる。

思えば幼少期、母親からよくかけられていた言葉があった。「あなたは何をするにも人より遅いんだから、人の倍、努力しなさい」と。確かに私も娘同様にペースの遅い子どもだった。そのことを心配した母親が親心から言ってくれたのかもしれない。だけど、私はいつの間にか「できない」ことへの焦りや劣等感に襲われるようになった。結果、何事も努力で補う人間にはなったけれど、親に貼られたレッテルをはがしきれず、ないものを補わなければならないと、いつも心が不安だった。

そして親になった私は、知らぬ間に娘に対して母が私にしたような呪いをかけようとしていた。そのことに気づいて、心底自分が恐ろしくなる。

人はなんのために努力をするのだろうか。皆に追いつくため、欠けたものを埋め合わせるため、不安にあおられながら、努力はするものなのだろうか。もちろん努力の原動力はさまざまだ。だけど、人と比べてないものを補っても、その先いつまで他人の存在に振り回されてしまうのだろうとも思う。

私はどこかで努力とは苦しいものであるべきだと思い込んでいたし、苦労をいかにも肯定的に捉えすぎていた。

しかし努力は苦しいものなんかじゃなくていいし、楽しいは正義なのだ。本人にとって目的をもって取り組めていることが大切なんじゃないだろうか。

娘と日々向き合いながら、そんなことをぼんやり考えている。そして、自分の仕事と重ね合わせながら、思うことがある。何をしたって嫌なことは続かない。楽しみながら続けることの工夫は必要だし、そのベースには何かしら熱量が必要なのだ。

自分にとっての向き不向きを見極める時、どうしても人と比べて優れていることに着目してしまう。だけど、純粋にそのことが好きで楽しいと思える気持ちが意外に大切なのだ。大人になると、そのことがいかに尊いことか、思った以上に気付かされる。

親になった私は、子どもに対してやるべきことを押しつけて不得意を伸ばすことより、できれば「楽しい」を見つけられるお手伝いができたらいいなと思う。

一見つまらないようにようにも見える「楽しい」の芽を、むやみに摘み取らないように。自分の感情を否定せず、感じることに自由であってほしい。

とかく、今は親として根気のいることばかりである。それでも、わが子と「今」を楽しむ心意気だけは忘れたくない。









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