未熟な大人と詩
なんとなく手に取って、仕入れることにした詩集。
久しぶりに目を通してみたら、独特な世界観に心が追いつかず、なんて生臭い詩ばかりなのだろうかと、言葉にするとそんな気分になった。私はなぜ、この詩集に心惹かれたのだろう。よくよく考えたら、たまたま開いたページにあった、一編の詩が妙に私を惹きつけたのだった。
当時の私は、子どもの理不尽な癇癪に、すっかり参っていたのかもしれない。“罵声と泣き声の方角へとつながれる“世界の片隅で、右往左往する日々。「羽が開かない」のは未熟な大人としての私自身なのか。そんなことを考えながら、社会と家庭との往復生活に自分自身を見出せず、疲弊していた時期だったのだろう。
先日、作家・川上未映子さんのインタビュー記事を読んだとき、川上さん自身が「運が良い・悪い」という表現を使わなくなったと話していたのが印象的だった。運が良かったんじゃなくて、そこにはちゃんと誰かの思いがあったのだと。
人の人生なんてどこでどうなるかなんてわからないよなと思う。そもそも子ども時代を平穏に過ごせる約束なんてない。人の善意がつなげてくれる人生。というか、そんな救いの循環の中で、なんとか生かされているのかもしれない、なんて思ったりもする。
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昨日で娘は8歳になり、理不尽な癇癪の代わりに怒りには明確な理由を示すまでに成長した。娘は私が苦悩しながら、自分の世話をしてくれていることをよく知っている。私たちはいつも2人だったから、私の姿をよく見ていてくれたんだなと思うことがよくある。個人的には夫婦で子育てをしてきたというよりも、娘がこの8年、共に走ってくれたような気がする。
お互いに感情の綱渡りを必死にしながら、それぞれの優しさでつながってきた。
決してなんとなくではなく、お互いに大変なことを意識的に乗り越えながら、優しさを必死に搾り出し、身を寄せ合って暮らしてきたような月日だったような気がする。あくまで、私の主観である。
最後に前述の詩人・青木はるみの「ふうわりとした楕円」という詩の一節を、ここに記したいと思う。
晩のお菜という穏やかな日常との対比というか、どんな不幸や苦悩も日常の暮らしとは切り離せないけれど、当たり前にあるその日常にこそ、静寂なる不幸や小さな怒りが渦巻いているような、そんな静かな恐ろしさをこの詩で感じてみた。あくまで主観ですが。
地に足をつけた暮らしが、とことん宙ぶらりんのような感覚。それがこの8年のような気もするのだけど。大いなる矛盾の日々である。
『鯨のアタマが立っていた』青木はるみ(思潮社)は、こちらで取り扱いしています。
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