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17.「アート」と「エンターテイメント」④

そろそろ「アート」と「エンターテイメント」の境界線についてなんらかの解答を出してみたい

これまで「アート」と「エンターテイメント」についてその違いを考えてきたのだが、これら二つは違う概念であって、当たり前のように違う性質を持っている。しかし、なぜその境界線が曖昧になってしまっているのだろうか?

いや、もしかしたら私以外の人は「アート」と「エンターテイメント」なんて全く別のものだと最初から認識できているのかもしれない。ただ、私にはどうしても、これはアートなの?エンターテイメントなの?と思うことがあるのだ。
特に、職業の呼び名として「アーティスト」という言葉と、「エンターテイナー」という言葉があり、これらの言葉と類似する表現として各分野において「ミュージシャン」「デザイナー」「クリエイター」「コメディアン(芸人)」「ペインター(画家)」などがある。私にとってはこれらはどれも定義が難しく、そもそも区別できないものだと思えるのだが、なんだかニュアンスが違うような気がするのだ。そのモヤモヤをなんとか自分の中で突き止めたくて、今こうして整理しようとしているのだ。

そこで、ここまで書いてきて一つ私の中でわかったことがあるのでそれを最後にまとめる。それは「アート」が共感により擬似的な「エンターテイメント」を生み出すために「アート」と「エンターテイメント」の境界があやふやになるということだ。イメージとしては、共感という界面活性剤が油を見せる状に細かく分解し、擬似的に混合している様子と似ている。

本来、個人的な探究の欲求の上で生み出される「アート」は外界とは接し得ないものであり、外界とのコミュニケーションが成り立たないためにそれは「エンターテイメント」にはならない。しかしながら、その探究の間で生じた感情の動きや、描写などは作品の中に色や音、温度などの物理的な記録や時に文章や画像など、文化的な記録として残されていく。それを大衆が受け取るときに、人間は自分の中にある規則性や、これまでの経験から個々人の解釈によってそれを逆算し、元の感情を復元しようと、自動的に意識が働く。これがいわゆる共感という作業だが、共感を意図としていない作品であったとしても、人間が作る作品に人間が触れると強弱に個体差はあれど少なからず共感を産むのである。

共感は、「エンターテイメント」の原動力の本質だと書いたが、例え「アート」であっても素朴で単純な作品である場合、自動的に多くの人に共感され、それは大衆に「エンターテイメント」として受け取られるのである。
一方で、制作者が非凡で、共感性の低い感情や現象を作品にした場合、それらは共感を生まない、もしくは産みにくいため「アート」だと認識される。

つまり、作品が「アート」か「エンターテイメント」かを決めるのは自分の意図によるが、それを大衆が共感することで、たとえ「アート」だったとしても見かけ状「エンターテイメント」のように扱われることがある。ということである。

アートの共感性が自動的に生むエンターテイメント

逆のケースもありうる。「エンターテイメント」として作ったものが、もともと共感の対象としていた相手(この場合特定された個人)がいなくなり、「アート」として受け止められるケースだ。私は西洋の肖像画などはまさにそれにあたると思う。あれは、今で言う似顔絵のようなものだろう。高価な似顔絵だ。先の定義でいうならば「アート」よりも「エンターテイメント」としての性質が強いだろう。しかしながら、時を経て現代にその絵画が持ち込まれたときに、それは単に似顔絵としてではなく、時代背景を切り取ったその時代の「アート」という認識になるのだろう。大谷翔平の自画像を今書いてもそこまで「アート」感は出ないが、現代の人間が共感できない、西洋の貴婦人の自画像は素直に「アート」のような気がするのだ。

作品の「アート」性には内在する探究心と外界から受ける共感が影響しているというのが、このnoteの1つの結論だ。

この定義によれば、このnoteは間違いなく「アート」と言える

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