愛が足りている人かどうかは、すぐにわかる
少しでも悪意を感じると、この人は敵かもしれない、私を傷つけるかもしれない、と思い、恐怖する。
一般的に見てそれは「大げさ」である。全く偏見的な意味を含めたくないんだけど、他の人からは、「相手はそんなこと思ってないよ」と言われたり、「大丈夫でしょ」と言われたりする(というか言ってくれる)。
その“普通ではない”恐怖には理由がある。早い段階で自分を傷つける人との関わりを断っておかないと、また、あの日々のような痛みに襲われるかもしれないから。
これまでは、そうして恐怖にいちいち怯えていても良かったのだが、今はそれを治したいと思う。
それは、大切な人たちとギャー!ナパパ!と楽しく生きていきたいからだ。不安定なわたしにいつか嫌気がさして、どこかへ行ってしまうんじゃないか、とか、思いたくないからだ。ゆったりと、どっしりと構えている彼らのことだから、そんなことはないと頭ではわかるのだが、これまたまだ乗り越えていない過去のせいで、レシートの続きに出てきた5%オフのクーポン券みたいに、どうでもいい不安をポケットに入れ続けている。自分が傷つかないための予防策をまた考えだしている。
昔、当時の彼氏にいつものように不安をぶちまけていたら、アドラーの「嫌われる勇気」を読んだ方がいいと言われたのち、付き合った時に比べて5kg太っていた私は、別人だと言われてフラれた。
私はその人の顔が好きだった。顔が好きだから、中身も好きになった。彼はそれに気がついていて、なのに私はその契約にそぐわない容姿になり、身勝手に不安を放出していた。彼も傷ついたのかもしれなかった。顔で選ぶのは、私が昔から軽蔑している人のやり方だった。
今まで、自分は怒りの星のもとに生まれたと信じていた。気づいた時には生みの親を困らせたいという気持ちを強く握りしめていて、私を怒り、私を支配しようとし、私に命令する、私の自由を奪う存在としてまっすぐに憎んでいた。敵として、子どもの人生の時間を奪っていることへの代償を負ってほしいと思っていた。親を憎むのはかなりエネルギーがいったみたいで、今思うと苦しかった。
でも、その怒りの性質は、私に言葉や態度で暴力をふるってきた人たちの攻撃性を、吸収してしまっただけかもしれないのだ。
「虐待を受けて育った子どもは、生き延びるために脳を損傷しているらしいです。」心理学専攻の知り合いから、そう教えてもらったことがある。たとえば殴る蹴るなどの身体的虐待を受けている子は、逃げられない家庭という環境で生き延びるために痛みを感じる脳の機能が弱まるらしい。
わたしはいじめと脳の関係性を調べてみた。長期間にわたるいじめは脳の一部を収縮させるという記事が出てきた。トラウマが原因で病院へ行く人の多くは、扁桃核という部分に傷があるとか。難しい言葉が並んだが、ストレスと戦うホルモンが慢性的に出ていたことがある人は、通常時にそのホルモンが人より少なくなってしまうとのことだった。そして、「他人からの非常に強い攻撃性と暴力にさらされた人の一部は、その攻撃性を自分も引き継いでしまう」という一文を見つけたのだ。
あれ?自分のせいじゃなかったのか。この一文は、心のお守りにとっておこうと思った。
そのうえでもう一度向き合うと、自分が今もなお過激な怒りを放出してしまうのは、そうでもしないと当時の彼らがストップ(といっても一時停止)してくれなかったからではないかと思えてきた。というか、実際にその過激な怒りをぶつけたことなんてきっとないよ。そんなことしたら、もっと酷い目にあうだろうから。だから、ぶつけても嫌われないとわかっている親に、非常事態に気づいてくれと怒りをぶちまけていたんだ。
「全員に好かれるのは無理。だから、嫌われてもいいと思ってみたら?」と言われた時、もちろん意味はわかったけれど、それを実行できるかは怪しかった。それは、私が想像した“嫌われてもいい”状況が、性格が合わない少数の人間からの悪意ではなく、同じ世界にいるすべての人間が、私のことを嫌な目でみている光景だったからだ。全員に好かれたいなんて思ってない。誰にも嫌われたくないだけ。それをうまく伝える言葉が思いつかなかった。一人の悪意がその空間中に伝播して、みんながまた私を嫌いになるかもしれないと。
バイキン扱いされ、教室内を移動するとき、机に私の体がふれるだけでみんながその「汚染」をはらう動作をしていた。ぶつかると悲鳴が上がったので、私は人やモノにぶつからずに移動するのが今もすごく上手だ。狭い世界で、すべての他者がわたしに「いなくなれ」のメッセージを送っていた。
そして、「みんなに好かれるのは無理」の本質は、全員に好かれなくても、自分を大切に思ってくれる人がいると信じられることにあった。たぶん、当時も私を大切にしてくれる人はいた。でも、それがほんとうにわかるくらい大切な人に出会うまで、私は生き延びる必要があった。なるほど、これがいじめサバイバーか。
わたしが持っている怒りや疑り深さ、ちょっとしたことに現れる悪意への敏感さは、私が私を守るために身につけてきた、大切に磨き上げてきた武器だった。これがあったから、ここまで歩いてこれたんだ。
その思い出深い、文字通り苦楽をともにした大切な武器や鎧にさよならをして、死ぬほど怖いけれど、むかつくけれど、嫌われてもいいと思えるようになりたい。どんな状況でも絶対に信じられて、これまでの武器だった「悪意センサー」くらいすぐに取り出せる場所に、「この人に嫌われたって、私には私を大切にしてくれる人がいるから、大丈夫。」を置いておくんだ。
またいつか、傷つけられるかもとこわくなった時には、通りすがりのおっさんに「どけ!」と叫ばれても脊髄反射で「お前が邪魔や、ボケェ!」と言い返していたあのソリッドさで、その勇気を持ち出して、今度は自分を守ってくれていた不安と戦ってやるんだ。