【掌編小説】魔法は解れて

その情動を「恋」と呼ぶのだと知る、それよりもずっと以前から、わたしは彼に恋をしていたのだと思います。

恋。
それは、火炎を閉じ込めた氷塊のような、なんとも不可思議な質感を帯びた言葉です。その響きを耳にすると、胸の奥底に温かな火が煌々こうこうと灯るようで、同時に、凍てついた鎖に身体の輪郭を固くしばられるような、そんな気分にさせられ、思わず浮足立って身悶みもだえしてしまいます。混ざり合うことのない相反する感情がせめぎ合い、それはどこにも落ち着くことがなく、ただ陶然とうぜんと、身体中をふらふらと漂っているのです。
彼のことになると、わたしの躰はいつもそうです。
彼の存在を考えるだけで、はっきりと、暖かい熱が四肢を巡っている流れを感じ、鼓動が耳に障るほど激しく胸を打つ音を感じ、同時に、身体の表面を冷たい悪寒が駆け抜けるのを感じます。ましてや、彼と空間を共にしている時間はさらにひどいことに、「わたし」という人間を内側から支えている躰は煮えたぎるぐらい火照ほてってしまうのに、外側を覆う身体は氷水を浴びたかのような戦慄が止まらなくなってしまうのでした。
恋。
ああ、なんて恐ろしい病なのでしょう。相容れない葛藤がひたすら体内をむしばみ、外側へ溢れ出ようと暴れ回っている。その悪魔を、至って冷徹な理性が圧倒的な力をもって制し、そっと胸の奥底へ押さえつけているような感覚。ひとたび恋心にさいなまれると、怒りにも似た感情を覚え、わたしの中を好き放題に掻き乱している何者かを、この身を引き裂いて見つけ出し、すぐにでも捕まえて殺してやりたい衝動に駆られます。
そして何よりも恐ろしいのは、その異質な状態がひどく甘美で、それはそれは心地良いものだということです。

その罪な男は、毎週末、空が暮色に染まる頃に近所の公園に現れました。
公園の中央には広い貯水池が掘られており、わたしはクラスメイトの男女数人でザリガニを釣ったり、カメやカエル、タガメなどとたわむれたりして水遊びをすることが、夏場においては常でした。池はお世辞にも綺麗とは言えないような不衛生な場所でしたが、ヘドロや腐敗にまみれた汚水の臭いを意にも介さず、幼いわたしたちはそのまなこに純粋な光を宿しながら、嬉々として水面をたゆませては生き物に触れて、自然のままに弾ける空気の中で存分に呼吸をしていたことをよく憶えています。冬になり、生命の気配がたちまち消え去っても、変わらず公園に集まって、隅のグラウンドで男子のバスケットボールの試合に付き合ったりだとか、みんなでおままごとのような遊戯をしたりだとか、とにもかくにも、わたしたちは幼稚園や小学校が終わると必ずその公園に立ち寄って、有り余る暇を際限なく使い切ってから家に帰る日々を送っていたのでした。
トザワモトヤ。
その名前を思い浮かべるだけで、どうしようもなく感嘆の溜息が洩れ出てしまいます。
常日頃から、わたしたちはその男を「もっちゃん」と呼んでいました。
週末は午前中に学校の宿題を済ませ、昼下がりにはピアノ教室へ通い、わたしはその帰りに公園で遊んでいる友達の輪に合流します。
わたしは自ら遊びを開拓するような旺盛な好奇心はもち合わせておらず、友達が池でザリガニ釣りをしていれば、一緒にザリガニ釣りをしました。ドッジボールやらキックベースやら、グラウンドのほうで何かしらスポーツをしていれば、その試合に混ぜてもらいました。学校がなくても、雨が降っていなければ誰かしら知り合いが公園にいるので、待ち合わせの約束などせずとも夜ごはんまでの遊び相手が見つかるのでした。

もっちゃんは、週末の夕刻にやって来ました。
決まって、一人で。そして、
「おぉ、今日はザリ釣りの日かぁ」
なんて言いながら如才なく微笑んで、ふらふらとわたしたちの輪に加わるのです。
いつからその関係が出来上がっていたのかは判然としません。気づけば、週末にはもっちゃんが遊びの輪に入るものだという“常識”がわたしたちの中にはありました。
彼はいつも、近所の公立中学校の制服を着ていました。ですから、年は大体、七、八歳ほど離れていたのではないかと思います。
その頃のわたしたちにとって、中学生という存在はお兄さんを通り越して、完全に大人でした。わたしは自分が大人になる未来など想像もしておらず、もっちゃんのいる世界には一生たどり着けるものではないのだという頓珍漢とんちんかんな確信めいたものを抱いていました。そんな途轍とてつもなく遠く離れた大人と、こんなにも友達のように親しく打ち解けている状況が全く普通ではなく、妙に気さくに話しかけてくれる彼に対して、わたしの胸は父親や同い年の男子には決して抱くことのないような感情を宿したのでした。

疑いようもなく、わたしは彼のことが好きでした。
確認のために姿見の前に立って、向こう側の相手に「彼のことを好いているか?」と尋ねると、彼女はしかと頷くのです。その揺るぎない反応を目の当たりにして、姿見のこちら側に佇むわたしは当惑し、心底愕然としました。
異性。
そこで初めて、わたしの中で長らく眠っていた狂おしい焦心が呼び覚まされたのでした。それを認めた途端、わたしは自分が女であることを如実に意識するようになりました。

一夜にして、わたしの振る舞いは一変しました。
もっちゃんは、ザリガニ釣りの時は決して池の中に入ってこずに、転落防止用に外縁を囲っていた木柵の外側から釣り糸を垂らしていました。ドッジボールの際は進んで退屈な外野へ行ったり、もっちゃん一人対わたしたち子供チーム、という形式で試合を行ったりしていました。彼はわたしたちの輪に加わっていながら、一緒になって遊びを真っ向から楽しんでいるというわけではなく、いつも後ろから静かに見守っているような雰囲気だったのです。
泥水をたたえる池に足を踏み入れることは、女として、至極はしたない行為なのではないか、とわたしは恐怖しました。そして、あんなに楽しくはしゃいでいた水遊びを避けるようになり、スポーツも審判に回るようになり、ピアノの練習に一段と励むようになりました。
いつしかわたしは友達の輪に対して、身体はちゃんと近くに在るはずなのに、心は少し距離がある、といったちぐはぐな感じになっていきました。
同い年の男子が年下の子供みたいだと思うようになったのも、その頃からでした。何年経っても変わらず池に飛び込んでは泥だらけになって遊んでいる男子たちを、わたしは冷ややかな心地を抱きながらも微笑ましく眺めるようになりました。
きっと、遠慮を覚えたのだと思います。子供の遊びに対して遠慮をすることで、わたしはもっちゃんの瞳に映っている世界に手を伸ばすようになったのです。
池に飛び込んで泥だらけになりたい思いが完全になくなったのか、と問われれば、そんなことはありませんでした。しかし、ひとたびお姉さんになったような感覚を得ると、もっちゃんと同じタイミングで同じような笑い方が自然とできるようになり、それが何にも代え難いほど喜ばしい瞬間だったのです。

小学校の高学年になった頃でしょうか。
だんだんと、仲の良かった男女は互いに疎遠になり出しました。男子はゲーム機を持ち始め、女子は服や化粧を覚え始め、ある子は塾へ通い始め、部活動を始め、またある子は転校してしまったりと、わたしたちは男は男同士、女は女同士で群れをわかつようになりました。
わたしもピアノを弾けることや音楽に関心があったことを理由に、吹奏楽部へ入部しました。また、親からは中学受験をするように言われていたので学習塾へも通い始め、わたしの足も自然と公園から遠のくようになってしまいました。
それでも毎週末、ピアノ教室の帰り道だけでも公園に立ち寄ると、もっちゃんは決まって公園にいました。
依然として、公園では部活動も習い事もしていない同級生がちらほら戯れていました。しかし、彼らは各々のゲーム機を持ち寄って公園の隅の四阿あずまやに固まっているばかりで、ドッジボールや水遊びをめっきりしなくなっていました。
その代わりに、池の周りには下級生の子たちが集まるようになっていました。世代交代といったところでしょうか、あの頃のわたしたちと同じように、ザリガニを釣ったりカメを捕まえたりしてはしゃいでいるのです。もっちゃんは変わらず、わたしたちに接してくれた時と同じ柔和な笑みを浮かべて、その彼らと遊んでいました。

強敵を倒したのやら何やらで盛り上がっている同級生の男子らを傍目はために、わたしが池のほうへ向かうと、もっちゃんは子供たちに言うのです。
「あ、ユナおねえちゃん来たよ」
ユナおねえちゃん、こんちにはー、と子供たちも健気に挨拶をしてくれます。
おねえちゃん。内側を満たしていく得体の知れない充足感に、躰が震えました。そう、わたしはいつの間にやら、「おねえちゃん」になっていたのです。
「こんにちは」
わたしは後ろで手を組みながら近寄って、子供たちに向けて、もっちゃんと同じように如才なく微笑みます。
おねえちゃん。ユナおねえちゃん。そう呼ばれること自体は、幸せではありました。しかし、どうしてでしょう、同時に途方もない淋しさも覚えました。
わたしはもっちゃんと肩を並べて、一緒に子どもたちを見守ります。そうしていると、なぜだか泣いてしまいそうになりました。きっと、子供たちを見守るというもっちゃんの立ち位置に一歩近づいたことへの喜びと、もっちゃんがわたしのことを見守ってくれることはもうないのかもしれないという一抹の不安が相まって、筆舌に尽くし難いほどの苦痛が躰を襲ったのです。
「ユナちゃんは随分と大人びたね」
そう言うもっちゃんを改めて見上げると、高校生になったYシャツ姿の彼は一段と背が伸びていました。
「お……、お化粧、してるから。ピアノのお披露目が、近くて」
目が合うと、わたしの頭は抗いようもなく項垂うなだれて、髪で顔を隠すようにうつむいてしまいます。
そうなのです。わたしは高学年に上がってからというもの、ピアノコンクールが近づくにつれて、その練習でも薄く化粧をしていました。本番同然に弾きたいから、と必死でお母さんにお願いするものの、それはとってつけたような建前で、本当は練習が終わった後に、もっちゃんに可愛くなったわたしを見てもらうための策略なのでした。
「……いいね、いつあるの?」
「……来週の、日曜」
「ふうん、見に行ってもいい?」
「だめっ! 絶対だめ!」
ピアノの腕には自信がありました。練習通りにこなせば、出場する予定のジュニア部門の予選は軽々と突破できるし、入賞もまんざら夢ではないほどの実力はあったと思います。でも、万が一にミスをしてしまったとして、もっちゃんの前ではしたない醜態しゅうたいをさらすことなどあってはなりません。彼がわたしの演奏を目の当たりにすることだけは、なんとしてでも阻止せねばならぬと本能が警告するのでした。

はしたない。
そう、はしたないのです。彼に恋をして、必死に小奇麗に取り繕っている自分は、なんともはしたない女なのでした。

中学受験を間近に控えると、とうとうわたしは公園に行かなくなりました。
わたしは勉強があまり好きではありませんでした。しかし、致し方なしと向き合っていると不思議なもので、「ピアノ」が躰に馴染んでくるのと同様に、「勉強」が躰に馴染んでくるのです。解らなかった事象をひとつ理解すると、そこから次々と連鎖するように謎が解けていく瞬間が訪れることがあります。これがそう言うことならば、あれもそれもこういうことが言えるのではないか、と掘り下げていくことに、次第に快感を覚えていくのでした。
わたしは受験した私立中学に合格しました。クラスメイトとは異なる進路、すなわち、もっちゃんの通っていた公立中学校とは別の中学校へ行くことが決まり、一抹の淋しさを胸に小学校の卒業式に出席したことを憶えています。
卒業式を終えると、二人の同級生の男子から告白されました。
わたしは彼らからの好意を丁重にお断りして、その無礼をびました。
思い返せば、小学校の六年間、わたしはもっちゃんを想い続けていたのでした。それに、もっちゃんと初めて出会ったのは、もっと前、幼稚園児の頃だった気もします。合計すると、どれぐらいの時間、わたしはもっちゃんのことを考えていたのだろう、そんなことをふと思うと、少し恐ろしくもなります。
それでも、告白に踏み出しはしませんでした。小学生のわたしが七、八歳ほど年上のもっちゃんに告白することなど、あってはならないことなのです。

私立中学に進み、新しい交友関係にも恵まれて、わたしには初めての恋人もできました。
入部した吹奏楽部の三年生の先輩から熱烈な告白を受けて、あまり深く考えることなく承諾してしまったのです。
お互いが行きたい所へ行き、同じ物を食べ、写真を撮って……。異性の先輩と二人きりでデートをして過ごす時間は、心地良いものではありました。
冬、地元の雪祭りに行ったその日の帰りに、初めて彼と口づけを交わしました。
なるほど、とわたしは思いました。なるほど、キスとはこういうものか、と。
ああ、と、そこでわたしはひとつ自覚しました。わたしは、「彼の好みのタイプ」を躰に馴染ませようとしているのだ、と。何気ない会話の中から彼の好きな女性像を創り上げて、その“彼女”の髪型や服や仕草などを意識的に模倣している自分がいるのです。
わたしは、なんとなく抵抗感を覚えました。
どうして、わたしが彼の気質に合わせて、「彼の理想の女」を演じているのだろう。彼の前で必死に取り繕っている自分を、わたしは激しく嫌悪するのでした
確認のために姿見の前に立って、向こう側の相手に「彼のことを好いているか?」と訊ねると、彼女は困ったように苦笑を浮かべて首を傾げるのです。その曖昧模糊とした反応を目の当たりにして、姿見のこちら側に佇むわたしも同様の心境を抱えていることを素直に認められるのでした。
春になり、彼が卒業すると同時に連絡も途切れるようになり、自然と交際関係も消滅していきました。
不思議と、気持ちは淡白でした。直接別れを告げたり、告げられたりしたわけではありません。しかし、直接振られていたとしても、わたしは大して悲しまなかったと思います。
細々こまごまとした重荷が外れたような、どことなく身軽で晴れやかな心地になって、それでも奥底にわだかまる何かを抱えながら、わたしは何も起こらない中学生活を卒業まで満喫しました。
内部選抜の枠で高校へ進学しました。
生徒会に入ったり、友人とひたすら遊んだり、バンドを組んでキーボードを弾いたり……。高校生活は厳粛げんしゅくなピアノコンクールが主軸にありましたが、その日々の合間でわたしは青春を謳歌おうかしました。幸か不幸か、わたしは誰からも告白されることがありませんでしたし、また自分からも告白することはなかったので、自分のやりたい活動を思う存分やり尽くせた気がします。

不意にもっちゃんのことを思い出したのは、高校三年生、音楽大学への進学が決まった冬の頃でした。
生徒会長の座から退き、バンドはメンバーの進路事情で解散。友人は依然として大学受験を控えている子ばかり。そんな状況の中で、早々に次の進路が決まっていたわたしは自ずと孤立し、一人の時間を過ごすことが多くなりました。
どこかの楽団に所属して、プロのピアニストにでもなるのだろうか。そんなふうに、漠然とした将来像が恐ろしいほど現実味を帯び始めてくると、何もしないわけにはいかず、一心同体のピアノを活かしてSNSで活動を始めたり、バンド活動の経験を活かして作詞作曲の勉強をしてみたり、音響スタジオでアルバイトをしてみたりと、眼に見えている範囲で音楽にまつわる様々な行動をしました。
そんな、無理やり忙しなく自分を動かしている時に、ふと、もっちゃんのことが頭に浮かんだのです。
そういえば、彼は今、どこで何をしているのだろう。変わらず元気でいてくれているだろうか。
ああ、とわたしは思いました。
わたしの恋は、小学生の頃から何ひとつ進展していないのだ、と。
年が明けて、正月、わたしは近所の公園に久しぶりに足を踏み入れました。
夕暮れ時のことです。
道路脇に植えられていたはずの桜の樹が切られていたり、遊具の数が減っていたりと、記憶の景色と変わっている箇所がいくつかありました。
しかし、中央の貯水池や隅のグラウンドはあの頃の姿のままでした。
懐かしい公園を見渡してそう思った矢先に、わたしは目を見張りました。
グラウンドで、小学校低学年ぐらいの子供たちに紛れてバスケットボールをしている、Yシャツ姿の高い背中が視界に入ったのです。

しばらく、わたしはグラウンドの入り口で呆然と立ち尽くしていました。
「あれ、もしかして、ユナ?」
振り返りざまにわたしに気づくと、彼は言いました。
「ああ、なんだ、ミツキか」
シライシミツキ。その男は、共にザリガニ釣りをし、バスケットボールの試合をし、いつしかゲーム機を持ち始めて、気づけば疎遠になり、そのまま別々の進路へ旅立った、かつての同級生でした。
それもそのはずです。もっちゃんとの年齢差を考えると、彼は今頃、二十代半ばで、かつてよりもずっと大人びているはずなのですから。
「なんだ、ってなんだよ」
「ごめんごめん」
「久しぶりだな」
そう言って、嬉々として駆け寄ってくるミツキ。その顔を見て、わたしは緊張の糸がするりと解れるのを感じました。
「うん、びっくりした。こんなとこで何してんの?」
「え? バスケ。子供たちと」
「見りゃ分かるよ」
内心、わたしは安堵しました。これがもっちゃんとの再会だったなら、どうにかなってしまっていたかもしれません。
「中学上がった時に、何かのきっかけで少年たちと仲良くなってさ。暇さえあれば、こうやって名もなき近所のお兄さんやってるわけ」
ミツキは大学入試を控えているようで、年明け早々に昼過ぎまで予備校へ行っていたのだとか。それで学生服を着ていたらしいのですが、改めて見ると、記憶のもっちゃんとは似ても似つかない同い年の男子なのでした。

ふと視線を感じ、わたしはミツキの足許を見遣みやりました。
すると、彼の背後に女の子がくっついていて、不安そうにわたしのことを見上げていました。
「おねえさん、誰? みっちゃんのお嫁さんなの?」
ミツキの片脚にコアラのように抱き着いて、女の子は泣きそうな声でわたしに問い掛けます。
「違うよ、おにいさんが子どもだった頃の、同級生だよ」
その潤んだ瞳に微笑み返して、ミツキが少女のお団子頭を優しく撫でると、彼女はどっと息を吐いて、もじもじと足踏みをするのでした。
わたしはそっとしゃがみ込んで、少女の目線の高さに合わせました。
「こんにちは」
わたしが言うと、少女はミツキの片脚に身をひそめるように隠れました。
物憂げな瞳。なんとなく見覚えのある顔だな、と思いましたが、そんなわけはありません。わたしの世界は今、初めて彼女の世界と交わったのです。
「わたし、ユナ。お嬢さんのお名前は?」
臆することなく微笑んで訊ねると、少女は小さな口を震わせて言うのでした。
「カナコ……。トザワカナコ」

「ふうん……、よろしくね、カナコちゃん」
わたしはそう言って立ち上がりました。すると、急にそうしたものだから、血の気が引いて立ち眩みを覚えました。
「どう? 一戦ぐらいバスケやらない?」
ミツキが訊ねます。
足許が瓦解がかいしていくような錯覚が脳裏を過り、揺らいだわたしは二、三歩ほど退きました。膨大な情報量を内に秘めた握り拳に、思いっきり額を殴られたような気分でした。
「いや……、ピアノ、本格的に頑張ってるから、球技は遠慮しておくよ。それに―――」
「それに?」
「乙女の恋路を邪魔するわけにはいかないからね。それじゃあね、みっちゃん。また成人式とかで」
わたしは平然を装って身をひるがえし、「みっちゃん、て……」と戸惑うミツキに構うことなく、颯爽とその場を立ち去りました。

回る視界が元通りになってきた頃、目元からはらりと温かいものが滑り落ちて、そこでわたしはようやく、自分が泣いているのだということに気づいたのでした。
それは、悔し涙ではありませんでした。
わたしは、とても、とても嬉しかったのです。

頬の輪郭をかたどるように伝うその名付けようのない涙は、寒さに凍えるわたしの躰を柔らかく包んで解していきました。
「どうしたの、ユナ? 今日はやけに感傷的だね」
そう言って優しく笑う夫に、わたしはピアノを弾いていた手を止めて言いました。
「うん、ちょっと、懐かしくなっちゃってね」



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