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映画『死刑にいたる病』

 犯罪者は人間ではない。
 だから私は犯罪者のようにはならない。
 もし犯罪者も人間なのだとしたら、きっと何かの病気だ。
 そんな風に思っていないだろうか。

 昨日までは人当たりが良くて面倒見が良い好青年であっても、ひとたび殺人を犯すと人間ではないかのように扱われる。あいつ本当は人間ではないものが人間のフリをしていただけだ、悪魔を排除出来て良かった。そんな具合だ。

 逆に、人間はもともと同じという考え方に立つとどうなるだろうか。
 人間は平等で差別は許されないのだとしたら、多様性が重んじられるのだとしたら、犯罪者だって人間である以上は悪魔呼ばわりされる筋合いは無い。生育環境や遺伝子のせいで犯罪を犯すような人間になったのだとしたら、『僕も被害者なんだよ』というのは一理あることになる。

 犯罪の良し悪しを言っているのではない。
 犯罪は悪いことだ。明らかに。これは疑う余地が無い。なぜなら、私たちの社会は犯罪を犯してはならないというルールの下で成り立っているからだ。
 だから罪を犯したものは処罰される必要がある。
 しかし良く言われることだが、罪人が死刑になったからと言って殺された人は帰って来ない。

 連続殺人事件の犯人役の阿部サダヲの演技は全く持って素晴らしいが、少々デフォルメが効いていてどうしてもコメディーチックに見えてしまう。それを差し引いても、犯人の不気味さを感じさせるような演出はこのストーリーにとって逆効果な気がした。
 犯人は死刑にいたる病を患っているのだという話に見えてしまう。
 だから、それを狙ったのだとしたら大正解だ。
 しかし個人的には、少し違う気がした。


 罪を憎んで人を憎まずと言うが、その罪がどうして起きたのかということだ。その人のせいでその罪に至ったのであれば、その人のせいにすればいい。その罪人を抹殺すれば世の中から犯罪は無くなる。
 しかしこれまでに多くの死刑囚が殺されて来たけれど、犯罪は無くなってはいない。
 となれば罪は、その罪人ひとりによってつくられたのではないのではなかろうか。

 あまりにも漠然としていて要領を得ない言い方になるが、罪は社会によって作られていると言えないだろうか。悪魔は社会の負の顔であって、社会そのものの一部ではないか。
 その罪人が罪を犯すような状況に追い込まれていなければ、悲劇は起こらなかった。罪人の肩を持つつもりは一切ない。それでも、罪人が罪人になってしまった原因は、その人が犯罪者として生まれたからではなく、犯罪者になる病気を患ったからだと言えないだろうか。
 もしそうだとすれば、死刑にいたる病を生み出しているこの社会を治療しない限り、犯罪は無くならないはずだ。

おわり


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