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友達、仲間、そして家族と故郷と

 年末年始は孤独に苛まれる人が多い時期だという報道があった。
 相談窓口があるので気軽に相談して欲しいと言っていた。実際電話したところで何をしてもらえるのでもないだろうが、話を聞いて貰えるだけで独りではないと思える効果はある。電話を切った後にもその気持が持続すれば良いが。

 孤独が社会問題と聞くと、中には俺は独りの時間を楽しめるぞという人がいるかもしれない。人と関わる煩わしさよりも独りが好きという人は一定数いて、その人たちは孤独問題とは無縁なのだろうか。きっとそうではないだろう。
 社会問題となっている孤独とは社会的な孤立のことで、孤独の時間を楽しんでいる人の場合の孤独というのは、社会生活の一部に孤独の時間もあるというに過ぎない。孤独を楽しめるのは、社会との繋がりがある中でのことだ。
 それに対して社会からの孤立は、楽しめるような孤独の時間というのとは根本的に違っている。それは社会との繋がりが断たれた状態だから、独りになった後に戻る場所は用意されていない。全てから断絶され、拒絶され、排除された後の孤独だ。
 もちろん、孤立に至るまでの道は単純ではなく、本人に問題があったケースも多々あるだろう。しかし何事も思い通りに行かないのが人生の本質だとすれば、いつあなたが孤立してしまうことになるかは分からない。

 人間関係の煩わしさはもちろんあるにせよ、人が誰とでも友達になれないのは何故だろうか。好き嫌いが起こらず、誰とでも仲良く出来れば孤立は生じない。でも、誰とでも友達になるなんていうことは普通は出来ない。通勤電車でいつも乗り合わせる人や、普段良く行くコンビニの店員とですら、特に都会では友達になんかなれない。
 友達になるかならないかを分けるのは、利害関係という言葉にヒントがありそうだ。
 仲間同士であれば、仲間と自分の間の利害関係よりも、自分を含めた仲間と他者との間の利害関係が問題視される。自分の利になるかどうかだけではなく仲間の利になるかという判断基準が入ってくる。そうした仲間は間違いなく友達だろう。
 しかし、常に自分対他者という見方をして、「友達」と呼んでいる人に対しても利害関係で考えてしまうと仲間はつくれない。こいつは自分にとってこういう利益をもたらしてくれるから「友達」になってやろうという風に考えているとしたら、その「友達」とは仲間にはなれないということだ。

 友達、友人、仲良し、親友、仲間。
 呼び方どうでも良い。
 自分の利害を考えるよりも前に、自分と友達を含めた全体の利害を考えてしまうような、そんな間柄が仲間であり、仲間同士がそうした同じような利害判断基準でいることが大切だ。付き合うかどうか、仲間に入るかどうかを損得で考えていては駄目だ。

 だから、良い人がいればいつでも結婚したいと思っている人は、多分いつまでも結婚出来ない。
 結婚なんかしてどんなメリットがあるの? という人も結婚は出来ない。元々結婚に興味は無いだろうけど。
 結婚という形式を取るかどうかが重要なのではないが、現代では仲間であることが制度上明確されていることのひとつが結婚だ。家族というのは社会での仲間組織の最小単位と言ってもよいだろう。
 もちろん結婚すれば無条件で仲間になれるというのではない。けれども仲間という意識で生活しなければいずれ破綻する。つまり仲間だったかそうで無かったが解り易いのも結婚だ。

 仲間内での利害関係を問題にしないような真の仲間が沢山いれば孤独とは無縁でいられる。お互いに社交辞令ではなく本当に心配しあえる間柄で、助け合える関係性があれば、それは鬱陶しい関係にはならないだろう。
 そういった関係性を築き上げるのが難しい都会では、人は孤独になりやすい。孤立しやすい。
 この時期、帰る故郷がある人は、それだけで幸福だと気付いて欲しい。

おわり

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