見出し画像

思考と言葉

 思考と言葉は不可分だ。

 考える時、頭の中を巡る漠然としたアイディアは、やがて現実的なイメージとして言葉に宿る。そうして出来た言葉を論理というルールのもとで正しい順序で組み立ててやることで、我々は語ることが出来る。
 言葉を選ぶように訥々(とつとつ)と喋る人も、マシンガンの様に喋る人も、イメージを言葉に託し文脈に乗せて送り出している。

 浮かんだイメージに寄り添うように集まってくる思考の断片が、単語として結実するとき、意味が定められて新たな共有イメージとなる。

 このように思考は言葉によって現実化されるが、言葉によって正確に表現出来るかと言えば、この点については非常に心もとない。
 言葉にした時点で、何か考えていたことと少し違うことに自分で気付くという経験はないだろうか。
 これは、逆翻訳のようにして言葉として現れたものを読み直して考えた時に、元々の思考と一致することが無いためである。
 思考⇒言葉、という経路をたどることによって現れた言葉は、思考=言葉ではなく、思考≒言葉であるからだ。集合記号を使えば、思考⊃言葉、すなわち、言葉は思考の部分集合になっているからだ。つまり、思考は言葉では表現仕切れない。

 では思考する時から言葉を使用して考えれば良いじゃないかということになる。日記などがその例に当たるかもしれない。
 書くことによって、そして書かれたものを読み直すことによって何度も反芻していく中で、なるべく思考と言葉を近づけようという行為が発生する。

 これが書くことによる効能である。

 ただし、どんなに意を尽くしたとしても越えられない壁がある。
 言葉となって書き出され、自分なりに正しい意味の文章になっているか確認を経たとしても、受け手(読み手)は意図通りには受け止めてくれない。
 同じ言語を使う限り、多くの人の間で単語の意味は共有しているという錯覚があるが、現実的にはそんなことはないからだ。

 ある人が「本」と言った時、Aさんは文芸書をイメージし、Bさんはビジネス書をイメージし、Cさんは漫画本をイメージするとったことは日常的に起きる。
 趣味は読書です、と聞いただけでは、私と同じ趣味ですねとは返せない。

 相互理解を目的とした会話では、自分が発した言葉を相手がどう受け止めたのかを、言葉や表情、口調、態度など、様々な情報源を頼りにして探り当てながら、お互いに思考を積み上げていくことがリアルタイムで行われることによって、相互理解という目的が達成される。

 バックグラウンドが異なる人々の社会での会話は、思考を前提とした言葉、そしてその言葉による会話が必要となるが、このような会話は、日本のように皆が同じという暗黙の前提が比較的強い社会では、特殊な部類の会話となる。
 暗黙の共通前提下では、いわゆる雑談や井戸端会議といった、特段の説得や相互理解を必要としない会話が主となり、これは思考の共有や相互理解や説得というよりも、情報の共有や感情の共有が主目的となる。

 考え方の違った人、いわゆるフツーじゃない人を嫌って爪弾きにするのは、暗黙の共通前提が崩れて会話が成り立たなくなるからだ。根っこが違った人との会話では思考によって言葉を操る必要が生じるので、慣れていないとその面倒臭さに脳が悲鳴を上げるはずだ。

 暗黙の共通前提を持つ共同体の境界部ではイジメが発生する。
 共同体に入れるか入れないか、共同体から遠ざけたい存在か、共同体の仮想敵を作る必要性があるかないか。どの場合も、共同体とその周辺で起きていて、共同体自体の大きさは関係ない。

 イジメに限らず心の違和感は、何らかのボーダー(境界)で沸き立つさざ波に起因したものであることが多い気がする(実際の海の波も、水と空気の境界部で起きる)。
 境界線は、友好的であれ敵対的であれ、異質なもの同士の対立があるところに立ち現れるバーチャルなラインなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 最も根源的な境界線である、自分と他人という区別。
 その自分と他人を有機的に結びつけることが出来る会話(対話)は、個人の思考と思考がぶつかり合う境界線上に生じる。
 喧嘩や言い合いに発展しないような、お互いに納得し合える道を探すことが出来るような、上手な対話の仕方をもっと学んでいかなければならないなぁと、最近思う。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?