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NETFLIX『THE DAYS』

 わたしたちの平和な毎日があるのは、いろんな誰かのお陰だと分かっているつもりで生きている。
 だからと言って、小腹がすいてつまんだナッツを誰が育て、誰が運び、誰が加工して、最終的に我が家に運ばれて私が口にするまでの間にどんな人々が関わったのか具体的なことは何も知らない。私の生活を支えてくれている人々のうち、顔が見えているのは、ほんの僅かな人たちだけだ。
 それは都市や社会が複雑化したからだし、便利になるというのはそういうことでもある。

 例えばトイレで用を足した後、わたしたちはボタンひとつ押すだけで綺麗さっぱり水に流すことが出来る。それだけで汚いものは遠くに運び去ることが出来る。
 ところが、その汚水が海に流れ着くまでの間には多くの設備を通り、それらの設備を造り、止まらないように日々のメンテナンスを怠らず、常に誰かが監視して正しく動作させている。
 それはわたしたちが高度に複雑化した社会に住んでいるから実現されていることだ。
 そのように、都合の悪いものほど自分の近くに置かずに済むようにわたしたちの社会は変化してきた。
 それをわたしたちは文明と呼んで崇めている。


 あの日以降、日本は復興したと言われている。
 オリンピックだって無事開催された。
 コロナ禍も乗り越えた。
 しかし、わたしたちが歓喜し苦悶し、笑い、くつろぎ、時には社会に不平不満をぶつけたり怒ったりしている間にも、その陰で何も言わずにずっとずっと支えてくれている人々がいる。
 そう、あの時だって、彼ら彼女らは政府や社会の批判や誹謗中傷にじっと耐えながら、集中砲火を浴びせられ続けながらも、先の見えない、そして人類が経験したことの無い難題に挑み続けているのだ。
 どうしたってわたしたちは、誰かのせいにしたがる。きっと人間はそう出来ているからだ。この線から向こう側にいる人達のせいでこんなに迷惑を被った。奴らは悪いやつだ! そうやって切り分けることで事態を理解しようとしてしまう。
 でも、たまたま線の向こうにいて悪者というレッテルを押し付けられた人々も、その一人ひとりはわたしたちと同じ人間なのだ。わたしたちが呑気に飲んだくれている間も、重い荷物を背負わされて茨の道を歩くことを強いられている。

 奴らはそれで儲けていたんだから、あんな事故を起こしたのだから、だからそれでもまだ足りないくらいだ、という言葉を向けるべきは、あそこにいる人たちにではなくて、社会に対してであるべきだ。それはつまり、現在を生きる全員ということだ。みんな「あれ」の恩恵を受けていたんだから。
 残念ながらわたしたちは、あの時のことを線の向こう側に追いやって無かったことにしようとしている。みんな忘れた振りをしている。まるでトイレの「流す」ボタンを押したからもう大丈夫だというように。

 再稼働の是非を言う前に、わたしたちには考えるべきことがあるはずだ。
 重すぎる責任が少数の人に押し付けられたのと引き換えに多くの人が享受出来ている毎日がある。その地域にいた人々だけが割りを食って未だに取り戻せない生活があるのと引き換えに、その他大勢の生活が営まれている。
 社会は「あれ」の重さをもっと自覚しなければならない。
 つまり、わたしたち一人ひとりが、「あれ」のことを真剣に考えなければならない。「あれ」を使うことで引き受けなければならないこと。使わないことで受け入れなければならないこと。
 いいとこ取りは出来ないということに気がつかなければならない。


 あの時あの場所で起きたことについては、これまでもドラマ化されてきた。
 この『THE DAYS』がこれまでのものと大きく違うのは、そこにいた人にぐっと焦点を当てていることだ。何が起きたのかを客観的な目線で負うのではなく、死と隣り合わせの想像を絶する状況の中で、普通だったら耐えられないような精神状態と健康状態を潜り抜けた生身の人間たちの心にギュッと絞り込んだフォーカスを当てたことだ。

 自分だったら逃げ出していたはずだ。
 実際、あの時の自分は逃げていた。望遠レンズによってテレビ画面に映し出された遠景を他人事のように見ていた。
 しかしあの時、あそこの中では・・・。

 日本人であれば一度は見るべきドラマだと思った。
 そしてまた、涙が止まらなかった。

おわり

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