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感情の一歩手前から

 喜怒哀楽と表される人の感情。
 そうした感情は、生理現象や身体的な感覚を起点とし情動を経て身体的な動作となることで表出される。
 何かを感じてから、それが例えば表情という顔の筋肉運動として表れるまでには複雑なプロセスと複数のステップを踏んでいるということだ。悲しいときに悲しそうな顔をするのは、考えてやろうとすると案外難しい。だからこそ俳優という職業が成り立つ。

 感情が湧き起こる発端となる部分を意識することは原理的には出来ない。なぜなら意識する自分を客観的に観察することは出来ないからだ。嬉しいという感情が起こりそうな出来事に遭遇したまさにその時に、その時の感覚を観察しようとした場合、途端に感覚は観察者としての感覚に置き換わってしまう。嬉しくなりそう感覚は残像のみを残して消えてしまうだろう。そんなことはないと思いがちなのは、私達があらゆる残像を真実と思い込む習慣があるからだ。
 
 感じることと感情は違う。
 例えば、「楽しいこと」を感じることは、楽しいという感情とは違う。喜怒哀楽は人が体験する生の「感じ」のことではなく、そう感じている自分を他人から見た時や自分で後で振り返った時に表現する言葉だ。私達が直接体験する「感じ」に付けた呼び方が「感情」であり、感情の種類につけた名称が喜怒哀楽ということだ。だから私は、「嬉しい!」「楽しい!」「美味しい!」と即座に口にできる人の言葉を信用しない傾向がある。

 芸術鑑賞は感情が沸き起こって来るきっかけとなる体験の一つだ。
 例えば絵画に向き合った時、これは花瓶に活けた花の絵です、と言ってしまったとしたら感情の登場する余地はない。そのような説明は絵を情報伝達のための記号として捉えて記述しているに過ぎない。そのような所作は、感情を伝達する媒体という絵の本来の目的である筈のことを捨て置いて感情以外の搾りかすだけを抽出したような無味乾燥なものになってしまう。

 映画についても当てはまる。
 あらすじや倍速視聴で得られるのはその作品の搾りかすでしかなく、旨味エキスの部分をそっくりそのまま排水口に流していることと同じだ。実にもったいない。
 映画を等速で味わった時に立ち現れる感情の素を体内に取り込んで、それが脳の中を走り抜けることによって作品と一体化する体験は他の何物にも代えがたい。臨場感や没入感と言うような観察者視点ではなく、体験そのものになって感情の渦と同化することなのだ。

 つまり芸術体験は、芸術作品という対象と観察者、というような客観的な体験ではなく、対象と一体化することで実現される主観的体験なのだ。それは主人公と感情を共有するというような距離感のものではなく、その世界に居ることで得られる、感情の一歩手前を起動する原素によって惹起される感情を体験することなのだ。

おわり

 

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