審判とジョブ型雇用の関係
運動競技の審判には2種類ある。
審判が勝敗を決める競技とそうでない競技だ。
審判が勝敗を決する競技
大相撲の行司や剣道は、審判が勝敗を決める競技の例だ。
例えば大相撲のルールブックに当たる「相撲規則」の審判規定にはこう書かれている。
一見すると行司が勝敗決定の権限を持っているように思えるが、5人の審判委員には行司に異議申し立ての権限があり、異議があった場合は審判委員の合議で勝敗が決まる。つまり、行司は勝敗決定の全権限を持っている訳では無い。
しかし、行司か審判委員かは別として、審判が勝敗決定することには変わりない。
剣道ではやや複雑だ。
勝負を決する判定は有効打突(剣道試合・審判規則第12条)かどうかによって決せられ、有効打突を判定する同等の権限を有する審判員が主審を含めて3名いる。そのうちの一人が有効打突を認めてそれを示した場合に他の二人は直ちに各自の意見を表明しなければならない(同第29条)。
有効打突かどうかは、フェンシングのようにランプが点灯するのではなく、規則に定められた定義に合致するか、各審判の判定に委ねられる。
過半数の審判員が有効打突を認めた時に有効打突が決定され(同第26条)、3本勝負では有効打突を2回獲得すると勝者となる。1本勝負では1回の有効打突で良いので、勝負を決定するのは審判と見て良いだろう。
少し長いが剣道試合審判規則から引用してみよう。
審判が勝敗を決めない競技
これらに対し審判が勝負を決めるのではない場合はどうか。
主に国際的なスポーツのレフェリーは、採点をすることはあっても直接的に勝ち負けを宣言することは稀で、点数という客観的な指標によって勝敗が決する。様々なバックグラウンドを持つ人々が戦う場では、合理的な方法で勝敗を決める方が運営側にとっても選手にとっても良いということだろう。
この場合のレフェリーはいわばルールの監視人であり、ルールに則って試合が行われたことを裏付ける為の証人でもある。
例えばサッカーの場合を見てみよう。
主審はまた「競技規則の枠組の範囲で与えられた裁量権を有する」(サッカー競技規則第5条2項)とされる。
ここで重要と思われるキーワードは枠組の範囲で与えられた裁量権という言葉だ。
枠組みの範囲という言葉はルール適用に幅を持たせているようにも読める。
そして、主審一人に裁量権を与える仕組みは、大相撲の審判の行司の裁量権とは違う。行司の判定は審判委員に覆されることがあるのに対し、サッカーの主審の裁量権は絶対的だ(最近のビデオ判定でも最終判断は主審が下す)。
陸上競技にしても、審判は順位を決めるのではなく、反則の有無を監視する役割だ。
レフェリーが複数いるのは、ひとりでは見えない部分を補完したり、それぞれのレフェリー同士で監視し合うといった意味合いで、主審が偉いということではない。
参考までに英語版のサッカー規則からレフェリーの欄を掲載しておこう。
IFAB(The Internationaol Football Association Board、国際サッカー評議会)が発行しているLaws of the Game(直訳ではゲームの法)だ。FIFA(国際サッカー連盟)とは別団体になっている点も興味深い。
authority、オーソリティーという言葉は、(レフェリーが)このルールを作った人と同等であることを保証するというような意味で、日本語にすれば一切の権限や全権限ということになるが、ニュアンスとしては「法を体現する人」ということだ。
審判とレフェリー
審判とレフェリーは同じことを指す言葉だが、ここでは説明の都合上、次のように分けてみたい。
すなわち、勝敗を決することが出来るのが審判、そうでないのがレフェリーということにする。
勝ったか負けたかを判定する権限を持っている審判と、競技規則を施行する一切の権限を持つレフェリーは、どちらも強大な権限を持つことには違いないが、その権限の質は異なる。
ルールの監視人たるレフェリーは、ひとつの試合についてのコントロール裁量を持っているものの、レフェリーの一存で勝ち負けが決まることはない。定義の反復みたいに思えるかもしれないが重要な点だ。
つまり、レフェリーの権限が選手に与える影響の範囲は、プレーがファウルであるかどうかという点に限定されるから、もし仮にレフェリーに賄賂を渡したとしても、せいぜいがその試合でファウルを見逃してもらうこと位しか出来ない。
それに対して、審判は勝敗を決める権限を持っているから、選手側が競技外で審判に期待する余地が出来る。審判員を複数にして一人の審判員の責任の範囲を薄めることで、選手が不穏当な行動に走ることを防止しようとしているとも思えるが、審判員の長たるものを押さえて便宜を図って貰うという余地が残る。
談合や賄賂や忖度という言葉が良く似合う土壌に見えてくる。偉い人が偉ぶったり、上司には逆らわない方が良いというような、どこかで見覚えのある光景が想像される。責任の所在の不透明性や、責任の擦り付け合いといったことにも通じて見える。
恐らくレフェリーに勝敗決定の権限を与えていないのは、仕組みによって不正をなるべく排除しようということなのだろう。世界には賄賂さえ詰めば何とかなる国も多くあるから、せめて試合の場ではクリーンにしようということだろう。もっとも、クリーンにしなければいけない理由は道徳とかスポーツマンシップとかいうことではなくて、そうしなければマジで死人が出るからだ。
ルールと権限という仕組み
審判とレフェリーの比較で見えて来たのは、レフェリーが裁く競技の合理性だ。そこでは、予め定められたルールの番人としてレフェリーが置かれ、レフェリーにはルール運用の幅を含めた裁量と権限が与えられている。
レフェリー(主審)とアシスタント・レフェリー(副審)の関係は、上司と腹心の部下の関係とは完全に違う。それに対して審判長と審判委員の関係は微妙に見える。
レフェリーは選手に退場を命じる権限すらあるにも関わらず、試合の結果には一切関与しない。勝敗は得点という仕組みによって保証されている。
これほど明確に競技者の達成目標(ゴール)とそれを支配する者の権限と裁量の範囲が定めれている。よく出来た仕組みだと思う。
ジョブ型雇用と言う前に
今日本では、これまでのメンバーシップ型雇用から脱却し、必要な職務内容を具体的に明記して職務に適したスキルや経験を持った人を採用するというジョブ型雇用への移行が進められようとしている。
これは海外の一部で主流のやり方を輸入する試みであるが、サッカーのルールを大相撲に突然適用することが出来ないように、形だけ持ち込んでも違和感しか残らないように思える。
違和感で済めばまだしも、職務権限のみを明確にしたところで、裁量権を含めた組織の枠組みを変えない限り、その実効性には疑問が残る。つまり、これまでのような上司と部下という関係性、感覚では駄目ということなのだが、分かっているのだろうか。
企業統治の仕組みとして指名委員会等設置会社や社外取締役の活用が進められて来た中で、これらが想定通りには機能していない企業が多いとも報じられている。
企業体質や文化という言葉で片付けられがちだが、日常生活、学校、政治など日本のあらゆるところに通底する組織やルールや人間関係の在り方を観察して、新しい仕組みをどうマッチさせるのか良く考えた方が良い。
そんなことを思いながら、サッカーワールドカップを心待ちにしているこの頃。
おわり
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