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会社=社会な世界観の行末

 平日の昼時、都会のオフィスビルの周辺が食事のために続々と出てくるビジネス・バーソンで溢れかえっているのを見て思った。この人たちはきっと退職後、社会との繋がりの喪失感を抱くのだろうなと。
 休暇でたまたま通り掛かった私の目には、やや異様に見える光景だったが、場所や会社の規模は違えど普段の私は同じ様な境遇にあるのだと気付かされた。

 会社勤めの人が頭に描く社会とは、殆ど会社と同義だ。殆どの時間を会社で過ごし、会社の用事が優先される生活を長く続けていると、会社が生活の全てになる。会社が無い生活など考えられなくなる。
 会社=社会な人にとって会社から退職することは、社会から退く事の様に感じるのだろうと想像できる。
 会社は社会のほんの一部であり、世界は途轍も無い広がりを持っている。それを忘れてしまうと、きっと人生は虚しいものになる。
 人生観は人それぞれだからこんな話はお節介以外の何ものでもないけれど、寧ろこれは私自身に向かって言いたい事。

 大企業に勤めストレスで胃に穴を開けながらも働き続けていた父を見て、私は大きな会社へ行くという選択肢を捨てた。普通の会社員にはなりたくないと思って、ちょっと違った職に就いた。
 仕事は大変なこともあるが楽しい事も多く、何より向いている仕事と思えた。だから大企業への就職をしなかったことの後悔は全く無い。本当にこの仕事で良かったと思える。

 けれども会社は会社である。
 人か集まれば人間関係が生まれて、人数が増えれば組織が出来る。 
 組織を機能させるには組織のマネジメントが必要になる。そして気づけば私は、あの時の父と同じ様な景色を見ている。
 それでも大企業と違い、壮絶な出世争いがあるでもなく、さしたるマネジメントをしているとも言えない。どちらかと言えば窮屈な思いはせずに済んでいる。だから私の胃には穴が開いていない。


 父は結局、海外の関連会社の役員への昇進を蹴って定年退職した。その後は紆余曲折あれども、基本的には悠々自適と言えるだろう。
 私と父との違いがあるとすれば何だろうか。
 あの頃とは定年の年齢が違って伸びている。父よりも10年は長く勤める事になる。退職した頃には気力と体力がどれだけ残っていることか。
 退職後に夢見る様な人生が広がっている気はしない。

 リタイアという言葉はもともと、撤退とか引っ込むという意味だ。どこか後ろ向きな気がしてしまう。最近ではアーリーリタイアという言葉が何となく前向きに使われているけれど、世捨人風情が漂う。
 いつまでも働く=会社に勤めて給与を貰う、だと思いがちだが、必ずしもそうではない。自分の能力を誰かのために活かす事が出来ればそれで良い。
 そのためには会社内でしか通用しないスキルをいくら積み重ねても駄目な訳で、そろそろ別のコースを見定めておかなきゃなと思ったりしている。

おわり


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