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栗きんとん、コーヒー、五平餅。それとお父さん。【物語・先の一打(せんのひとうち)】17

「転んで口切っちゃったんで、一串だけみそのついてないのと、リンゴジュースは氷なしで。あと洋食用のナイフとフォークあったら一本ずつ借りれますかね、すいません」

店で高橋は、一通りの注文にそうつけくわえた。そうしてもいいのだと、熟知しているかのようなリクエストのしかた。四郎と奈々瀬はびっくりした顔を向ける。
はいはい、とたやすく注文に応じる店の人。

高橋は二人の顔を見かえした。「あるものそのままでないと、手間がかかって迷惑なのではないか」という先入見を持っていた顔をしている。
今の日本で、どこでもよく会う顔……家庭で、保育園で、幼稚園で、小学校で、「決まりを守らないことは迷惑だ」と管理がしやすいように賞罰あわせて教え込まれ刷り込まれて、決め打ちに従うのが当然としつけられてしまった顔。奈々ちゃんほどの決断力があっても、その縛りは入っているのか。

「はっきり細かくかんたんなことを頼むほうが、わかってもらいやすい。はっきり決めて伝えた方が、相手も困らずにすむ……ええと、親切な店だなって思ってもらえたら、お店の人もうれしい。そこ、信頼していいとこ」高橋は念のために、前提を補った。

四郎は何かをかみしめた。社会とはそのくらいのことに気安く応じてくれる、親切な場所らしい。それがお店の人の長期的な利益にもなるらしい。


「ほんとはさ、俺がやったらないかんのにさ、いろいろ」四郎が「ごめん」という言葉を使おうとしたとき、高橋が分厚い手のひらをそっと立てた。

「めいめい、たまたまその現場に詳しいやつが、やればいいだろ。お前にはお前にしかできないことがたくさんある。たとえば僕は、奈々ちゃんを危難から守りたくても、そもそも護身術を知らない」

それを聞いた四郎は、心の痛む記憶をよみがえらせた。心の痛む……つまり、自分にとって消化しきれたと言い切れない記憶。
夏ごろ、本気で高橋に奈々瀬をゆずる、奈々瀬とつきあってやってくれと言ったとき。それが理にかなっていると思って、自分は身を引くと固い覚悟で言ったとき。

相手が悪かったといえば悪かった。そして四郎が「自分は危険すぎるから、気の合いそうな二人を引き合わせて、せめてもの温かい気持ちに浸ろう」とささやかに期待した半分無意識の動きをぶち壊してくれるという意味では、相手がよかったといえばよかった。
だって高橋は、三十六歳過ぎて生きていられる気がしなくって、心の奥底に発狂恐怖を抱えたまま、最大限に自分を生ききると決めてしまった男なのだから。

あのとき高橋は四郎の顔から目を離さないまま、低い声で言ったのだった。
「奈々ちゃん相手に正気で生きてられる二年弱を無駄にするな。少なくともあの子の十七歳と三百六十四日めまでは、僕相手に一歩も引くな。あの子の十八歳の誕生日以降は、その相談には乗ってやる。

身を引く? 僕の生涯一人きりの親友が、そういう ”回避的” なパターンにおとなしく丸まれるなんて思うなよ。お前がどんなにぎりぎりしんどい思いにさいなまれていようが、お前のその手を離してなんかやるもんか。

お前は人間関係の当事者で居続けていいし、引っ込んで居場所のなさをかみしめなくっていいんだ。たとえ百万人がここから出て行けと言ったって、お前自身が居心地悪くたって、お前はここにいていいんだ、僕の手を離さなくていいんだ。

奈々ちゃんをあきらめなくていいんだ。

どれだけたくさんの人がお前の身を引く動きに乗っかってきたかは知らない。だが今度こそ、お前が引っ込もうとしてる、そのほっとするけど無性にさびしい安心領域に引っ込ませてなんかやるものか。居場所のなさ感はお前をもっともっと窮地に追い込むからだ。僕のおじやおばが行ったきり帰ってこれなかった地へ追いやってしまうからだ。

僕相手に一歩も引くな。苦しいぞ。しばらくお前の認知は不協和のままだ。赤っ恥かかせた僕をどう痛めつけてやろうかと思うぐらいにな。それでも関係性を放り出すな。引くな、くっそばっかやろう、殴られなきゃわかんないか!」

高橋は、こいつがここまで怒るのかと見惚れるような怒り方をして、そのあとこぶしを四郎の胸板に、とすん、と勢いなく置いたのだった。

「ちくしょう、なぐりかた、知らないや」

かっこわるくて一生懸命なのが青春なら、あれもそうだった。


四郎は遠くを見るように、思いおこしていた。そして言った。「おしゃれなことや、気のきいたことや、コミュニケーションは、ぜんぶお前に任せる」
もう比べない。もう比べて劣等感を持ったりしない。そんなことをしている暇はない。あと、わずか一年と二週間。一日ずつ、思い出を作ろう。

「和菓子とコーヒーは本当に合うんだよな」栗きんとんを奈々瀬の分うすく切ってやったあと、四郎に「どのくらいいける?」と聞いて、「ちょびっと」の返答を得た高橋は、そのように取り分けた。

口の中で甘くとけていく、裏ごしした栗。
四郎は自分の怖い目を奈々瀬に直接見せないように、目をつむって奈々瀬に笑いかけた。奈々瀬も、大丈夫なほうの口の端で笑った。一緒のものを食べているんだ、というきゅんとした気持ちが広がった。

出てきた五平餅に、四郎は「落ち着かんわー」と言った。「俺らのとこやと、五平餅、大判小判の楕円形やでさあ。丸いのが串にいくつかささっとると、おちつかんわー」

高橋は笑った。「日常接しているものだと、形が変わったらおちつかないだろうな。僕はほら、五平餅じたいが珍しいから、どんな形してたってスルーだけど。奈々ちゃんも五平餅、主食じゃないよね」
奈々瀬は黙ってうなずいた。
「主食てって何ーー」四郎は口をとんがらせた。「冗談? もしかして」
「そうだよ」高橋がそっと答えた。

緊張関係がない間柄だと、それは揶揄や攻撃ではなくって、冗談というものになるのだ……四郎はつぶやいた。「高橋、俺まんだ、お前に少し緊張しとるかもしれん。何が悪さしとるやしらんが、俺完全にお前に背中預けたと思っとったが」

「冗談は選んで言っている、僕も」高橋が答えた。「もしかすると冗談への緊張は、僕の方が持っているかもしれないし、両方が持ってるかもしれない」

五平餅のみそのついてない米もち部分を、やはり小さめに切ってやってから、高橋はかかってきた電話に出た。「あ、たどりつけましたか。よかった」


奈々瀬は黙って座っていた。
店に入ってきたのは、父の安春だったから。

今日はちょっとおちついたらしく、コートのボタンはかけちがっていなかった。奈々瀬の顔をみて、安春はショックを受けたらしい。「痛かったろう」と、おろおろと言った。母親の様子を共有するのはやめた……女の子の顔をグーで殴る、というのは、やはりただごとではなかった。


奈々瀬は少し見ない間に、安春との距離感が微妙なものになっていることを、ぼんやりながめていた。父親との間柄が密着しすぎていたかもしれなかった。

なるほど景色のいいところで、松本と名古屋の中間合流地点にしやすいのは、恵那峡。そういう調整が高橋は時々、うまいのだった。

「うまく休めました?」高橋は、ここへ来ているんだから当たり前なのだが、地方裁判所の勤務についてあまりよく知らないので、そんな声かけをした。「実は親子でけがしてるでしょ」

「うーんそうなんだよ。背中に湿布貼ってるよ」安春は高橋に答えて、奈々瀬に改めて声をかけた。「奈々瀬、お父さんが不甲斐なくて、すまない」

奈々瀬は黙って首を振っておくことにした。


四郎に久しぶり、と声をかけて、安春は言った。
「実は大喧嘩になっちゃったのは、私の身の振り方をね、まあ真正面から説明を試みちゃったんだよ。妻に」

「えっ」
あそこまで昼夜逆転の生活で、顔を合わせないようにしていた相手に、正面切った……四郎は自分が絶対に選ばないであろう無謀さに驚いた。安春は、案外話せるものだと思っていたらしい。

「燃え尽き感がなんともならないし、徳山君も守山区の弁護士事務所に転職が決まったから。私もヤメ判で弁護士やろうかなと思ってる……って」

「松本で……ですか」

「いや。徳山君の守山区は本決まりで、私は高橋くんとも相談して、名古屋の別のつてを当たってて……まだ、話は大きく動かないように、待ってもらっていたんだけどね」

「ああ……それでケンカに」高橋は納得の声をあげた。「あー、いきさつが読めた。これからどうするの、と今までの未解決が、一挙にぼっかーんと爆発したわけだ。じゃあ聞いちゃってもいいかなあ。あの安春さん、安春さんが無意識に奥さんを持て余すのは、そりゃ何でですか」

「世間様からの呪縛のようなもんなんだけどね」

安春は苦虫をかみつぶしたような顔で言った。

「私が左陪席やってたときの裁判長が、ずーっとずーっと私に言うんだ。額田君、奥さんは何かやらかすぞ。
しこうして裁判官とは、実生活においてもあるていど心して、公平な人であること、謹厳実直であることを体現せねばならん。身内仲間内が許しても、社会正義が是としない。
したがって何かあっても、君が離婚するのは得策ではない。ある程度のことには耐えなさい。別居も目立つから、家庭内で穏便に。もう耳にタコができてタコ焼き屋に売れるぐらいできて胃からタコがあふれてくるぐらい、ずーっとずーっと繰り返し私に言うんだ。

左陪席だからもちろん、はいわかりました。はぁなるほどです。そうとしか返事しないでいた。ほかの方法もあったんだろうが、めんどくさくてね。

当時は私は若かった。中年オヤジが何をぬかす。人間なんだから浮気だの別居だの離婚だの当然あるだろと。うちの妻はオペラ歌手が裸足で逃げてくぐらい情熱家なんだから、私ごときがコントロールできるもんじゃないよって。

そうしたら裁判官の不祥事がどれほど目立つのかを、いろんなところで見聞するようになり……裁判長の言葉どおりに、首をすくめざるを得なかった」

潜在意識側の恐れが、表面意識を凌駕する。高橋はごくりとつばをのんだ。四郎と自分とが、ハンドリングしていこうとしているそれ。

現代日本では潜在意識の神話がはなはだしい。潜在意識九割以上と教えられ刷り込まれて、やがて一部の人々は自分で制御できない何かに振り回されているような錯覚におちいりもする。

他人の観察を借りれば、言動と結果から容易に推測できる「自分の意識」でしかないのだが、「意識できない自分の意識」として依存症や症状転換にさえ転がっていくがゆえに、それは「プロでなければ扱えない難しいもの」という不思議な様相を呈してくる。

高橋もまた、ココロの痛みと見える化のしにくさに、ときおり途方にくれそうになるのだ。


いきさつを話した安春は、席を立って娘に頭を下げた。

「というわけだ、奈々瀬、すまなかった」

親が子供に謝る……という風景を、高橋は粛々と受け取り、四郎は決して自分の身には起こりえない憧れと驚きと尊敬をもって、安春を眺めた。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!