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抱きしめて、それでーー秋の月、風の夜(61)

着回しできる上下のセットを数着買った。奈々瀬は高橋に、「あの、お財布に三千円しかないんですけど、でも五千円出したいの」とささやいた。
「おうちに戻った時、立て替え分清算してもらっていい? それか後日でもいいよ」
「んー、家に戻った時でいいですか」奈々瀬は、嬉しそうにした。高橋に相談すると、いろんなことがとても簡単になる。自分の知らない打ち手を、あれこれ複数知っているひと。

四郎は途方にくれたようすで立っている。「高いもんもらってまって、どうしよう」
「おちつかないだろうな。誕生日プレゼント、はじめてだもんな」高橋は四郎に語りかける。「迷惑には思わないでくれ。僕と、奈々ちゃんが、したくてしていることだ。おちつかないだろうが、そうさせてくれ」

「ありがと。ごめんえか、うまいこと喜べしと、ごめんえか」四郎は沈んだ表情で、高橋と奈々瀬に謝った。

「いつか、いっぱいうれしくなったり楽しくなったりしてみて」奈々瀬は四郎の手を取って言った。「約束。お願いね、四郎」
「……うん」

服装を変えた四郎に、奈々瀬は後部座席で、体を寄せてみた。
四郎がおいつめられるように、後部席の左はじに寄った。
「おいおい、車傾くって」高橋は、笑いをかみしめながら声をかける。「まんなか戻って。もうさあーー」

四郎は座る位置を戻した。
「冬にさ、俺ごはん食べながら、奈々瀬の話聞いとった。覚えとる?」
と、話しかけた。
話をする方は思いつかなくても、話を「聞く」ことは、いくらでもできることを思い出したのだ。

「覚えてる。というか、思い出せてる。どんな家を作りたいか、四郎にいっぱい話したの」
奈々瀬の顔がぱっと輝いた。

「あんとき話し足りんかったこと、もっと聞かせてくれん?」

思いつくまま、話をしてくれる奈々瀬。四郎はほっとした。
自分の話は、家のことだのご先祖さまのことだの、陰惨すぎる。二人で話して認識合わせをする必要はあるけれども、今ここで奈々瀬が楽しめるデートには、あまりにも似合わない。選べる話題がわからないほど、暗い話しか探せない。

奈々瀬の声が好きだ。
両手を合わせたりひらりと指先を動かしたり、話に合わせて手を動かす奈々瀬。

聞き役の心やすさに、しばし四郎はぼけっとしていた。いつか、いつか暗い話も陰惨な話もとことん共有しなければならないとしても、今は奈々瀬の嬉しそうな笑顔を見ていたい。

話を聞きながら四郎は、昨夜の夢を思い出していた。実際に叫んではいなかったと高橋は言ったが。夢の中で泣き叫んでいた、四郎自身ではなかった、たぶん奥の人のうちのひとりだった。誰かのためになにか大事なものを、自分の中から次々とつかみ出しては捨てていた。そうしているうちに、自分の喉をちぎり、はらわたをつかみだし、気づいたら大事な誰かは、足元に血まみれの骸になって転がっていた。そんなひどい夢を。

奈々瀬が、今ここの自分たちふたりから、意識をどこかへずらしてしまった四郎に気がついて、話をそっととぎれさせた。
なんとなくほほえみ、じっと四郎の顔を見た。目はこわいので見られない。かわりにシャープなあごのラインと形のよい口元をみつめた。

四郎はふと我に返った。とがめもせずに、笑いながら自分を呼び戻してくれる奈々瀬の手を、そっと握った。
言葉ではないあたたかいものが、こんなに飛び交う間柄を、自分がもらっていいのだろうか。
はじめてだ。
ほそい指、暖かい手、小さいうすい手のひら。とくん、とくんと指にふれる脈。あたたかい血の流れ。

「僕見てないよ、キスしちゃえ」高橋はごきげんで声をかける。
四郎が観念したように、奈々瀬を抱きしめた。

抱きしめることはできたが、四郎はそこで固まりつくした。
「取ると決めたら取る」これは太刀小太刀組打の基本だ、さっと動くことぐらい苦ではない。

しかしその次の動作は、首を折るか腕ひしぎか当身、そういったものばかりだ。ふっかりとやさしく、愛情をこめて抱く選択肢がない。

やわらかくていいにおいの奈々瀬の体が、腕にも手にも体にも足にも、あたたかくふくふくと接してくる。小鳥かうさぎのようだ、少しでもひしぐ力が加わってしまったらつぶれてしまいそうだ。密着がおそろしい。車が揺れるにつれて体が揺れる。(おっ……ぱいがこんなに……うわぁ、ゆさる、あかんっ)四郎がぎゅうーーっと目をつむる。緊張の極点に、何かの針が振り切った感じだ。

奥の人とご先祖さまとが、互いに微動だにせず四郎に協力しているつもり……なのだが……ゾワゾワ感に耐えきれない。
「すいませんいっぺん離します」四郎が、変な汗を拭きながら手をはなした。

「……」奈々瀬はそうっと、右端に離れた。
高橋は見て見ぬふりで、黙って運転に集中した。とにかくひらけている景色を探した。

「よーしここらへん、景色がいいぞ」高橋が車を停めた。
いい散歩道だ。
高橋はトランクから、画材やクロッキー帳を一式出して、さっさとどこかへ消えた。
あとには、四郎と奈々瀬が残された。


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マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!