たぶん「キス」というやつだと思われます!ーー秋の月、風の夜(62)
#11 詰み
四郎と奈々瀬は、道の真ん中につっ立っていた。
アキアカネがすべっていく、しかもつながって。BGMは、日中はやくも鳴きだしたマツムシ、スズムシ。
高橋があまりにもすんなり二人の目の前から消えたので、無防備においてけぼりにされた四郎は、奈々瀬と手をつなぐことさえも忘れていた。
相手のあることで、四郎が唯一参考にできることは、連綿と続けてきた稽古のみ。
「取ると決めたら取る」。
それはまるで、仕事の「未処理のタスク」より淡々としていて、何かの作業のようだった。
庭の草をむしっておいて、とか、食器を洗っておいて、とか、風呂の掃除をしておいて、とかのような。
手をつないでいる、というのは、まだましだった。それより先の行為には、喜びのなさというかハードルの高さというか、変な一足飛び感がいちじるしかった。まるで急に、直面・維持せねばならない関係性を含む、人間社会のわずらわしさに直面してしまったような。
四郎はとんぼを目で追った。つながった彼らは、水面にちょんちょん、としっぽをつけていた。
昆虫にとっては、ここまで面倒なく淡々と営めることがらなのに、自分はいったい何に立ちすくんでいるのだろうか。
――うれしいの。いつも、つないで。
と、手をつなぐことについては奈々瀬が嬉しいのだと確認した。キスはたぶん、さらにもっと待たれている。
四郎はやっと思い出して、奈々瀬とそっと手をつないだ。きゅっ、と握り返されて、動悸が高まった。
情緒に立ちすくんでいるのではない、無知に立ちすくんでいるのだ。自分は「人をいとおしく思う」ということをあまりにも知らないのだ。
これはもはやデートではない。途方に暮れる人間系のタスク群、つまりあれだ、自分の苦手な「コミュニケーション」というやつの一つだ。
なんてことだ。
希望はないし見通しもない。退くという選択肢はない。戦術として玉砕系。つまり無心で当たるしかない。
「キ……ス、はじめてやん」四郎が、かすれた声で言う。
「私も」奈々瀬がそっと答えた。
奈々瀬の唇に顔を寄せようとして、四郎は内心(うっ)と息を止めた。
たぶんイチゴの香料のつもりなのだろうが、これはいただけない。
せっかく衣類の洗剤のにおいには慣れたのに、またもや別の、かいだことのない、人工的で安っぽい妙なにおい……
ハナがいいのも困りものだ。四郎は息を止めたまま、ことに及ぶことができないかを一瞬考えたが、いやだ……というより、無理だ。
奈々瀬が閉じていた目を、そうっとあけた。
困惑した表情の四郎を、けげんそうに見る。「どうしたの?」
「あ、いや、ええと……」
こういうことは、黙っているわけにいかないのだろうか。せっかく奈々瀬が選んだリップクリームなのに。
「かわええんやけど、唇……」
「まさか、このにおいが、だめ、……?」
四郎はかすれた声でささやいた。「ごめんえか、かわいくしたのに、せっかく」
奈々瀬は、「言ってくれてよかった」とそっとささやいて、そしてハンカチでリップスティックをぬぐった。
「まだ、においする?」
「きっとにおいだけの問題やない……」四郎は疲れ切った表情で、そんなふうに言った。「奈々瀬、俺とやと、きっとこんなことが、百も二百もある……俺、奈々瀬がええと思って選んだものに、いちいちダメ出すような自分、いやや……」
それには答えず、奈々瀬はふいっと高橋を呼びに行った。
「どしたの?」
クロッキー帳を出して風景のデッサンに没頭していた高橋は、驚いたように顔を上げた。
「リップのにおいがいけなかったんです、においで近づけない」
伝えながら奈々瀬は、高橋のデッサンへの没頭ぶりに好もしさを覚えた。自分だったら、やきもきして待ってしまうところだ。
高橋がよく高橋自身に言う、(さすがだ……)という自分への声かけとあいまって、それはとても好もしかった。