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きぼう。とまどい。のぞみ。ーー成長小説・秋の月、風の夜(102)

#20 希望 / 絶望

「起きてみろ、四郎」宮垣がにやにや笑っている。

四郎はねっとりした睡眠から、ねばりを払うように目覚めた。

「……はぁあ……」

全身が、もったりと重い。

「……ぁいたぁ……」  重いだけではない、あちこちが痛い。しかも服が汗でぐっしょり濡れている。よろよろと四郎は立ちあがり、まるで生まれたての小鹿のように足元もおぼつかなく移動した。直立できていない。準四つ足、といっていいぐらい、くの字だ。誰の体かわからないぐらい痛い。

「朝風呂の前にな、ちょっと手合わせだ。おいで」

四郎はもそもそと、店舗部を兼ねた稽古場まで歩く。

「ううーん……」
体がやけに重い。動きにキレがない。
まるで、寝坊して夕方に起きた中学生だ。

宮垣はシャツにももひきという姿で、たっていた。四郎もだまって、ただ、立った。

「……あっ」四郎は思わず目をみはって声をあげた。そのまますとっと胴への一打を踏み込んだ。宮垣が払う間もなく、のど元への刺突の寸止め。

こんなに体が痛くて重いのに、踏み込もうと思ったところへ体が入る、差し込もうと思った手が瞬時に届く。
間に合っていない感じが、もたつくくやしさが。ない。
あったはずのいろいろな不都合がない。跡形もない。

まだ無心ではない。まだ構えはのこる。けれども、相手を伺ってのカウンターアタックではない、自分から打った。
四郎は詰めた距離を直った。口を結んで、何も言葉がなかった。

「……まだ無心になりきってはいないが、かかりとはそういう感じだよ」

宮垣は、にいっと笑った。

「自分でない余計なものが多くいたので、それらをおさえつけるのに懸命な力みが、構えを作り出してしまっていた。
さらに取れ、本来の自然体が腹に落ちたらば、やがて難なく、先の一打がかなうんだ」

四郎は、宮垣の両手を握りしめた。「せんせい……」

生まれなおしているんだ。四郎は、宮垣の両手のあたたかさを感じながら、泣いた。涙があついとは、こういうことか、と思った。
あつい。息も涙も、とてもあつい。体の奥の体温がそのままだ。自分の体の奥にはこんな高温があるんだ。


たぶん、「うれしい」とは、この先にある感覚だった。

一方の、奈々瀬。
目が腫れるくらい泣いた朝から半日。

昼休み、高橋から奈々瀬のスマホに電話が入った。ドキドキした。
「ちょっと、だれ? だれ?」と女友達が騒ぐなかで、「お父さんのお仕事先の人だから、しずかにして!」とでたらめを言って、廊下から音楽室の横へと逃げる。

「もしもし? すみません、てまどっちゃった」

――昼休みだよね。ごめん。何分話せる?
「あと四分です」
(ああ、話せてうれしい……)と奈々瀬は思った。高橋の話運びは、的確で安心できる。

――用件二点。一点目は、僕いちどそっちへ行って直接奈々ちゃんと話すよ。会える日程詰めよう。二点目は、時間があれば、奈々ちゃんのフラストレーション度合いを知りたい。まず会う日程の話、いい?
「えっ、わざわざ直接? 電話でもいいのに」
――宮垣先生に四郎を預けた。その話も含めて、顔を見て話そう。僕は奈々ちゃんの相談係だ。

平日放課後に何時から何時まで時間が取れるのかを、高橋は確認した。
奈々瀬は、家族の夕食を作っているから……と、放課後の時間帯にしりごみしたが、高橋は気にしないで質問を投げかける。

友達の家でテスト勉強などの理由で、ごまかしがきくか。
家族の夕食を事前に作りおきして、したくを引きついでおけるか。
夕食の時間にまにあわなくても大丈夫な理由を作りうるか。

~という三点を確認されて、奈々瀬はおどろいた。
確かに不可能ではない。そして、土日を待つより自由度がぐんと高まる。

あっという間に、明日放課後二時間半、という約束が決まった。まるで旧約聖書のモーセが海を割ってしまったときのような……というとおおげさすぎるが、奈々瀬にはそう感じられた。

いつも、いつも、女子高校生の自分には思いつかない「うまいやり方」を教えてくれるひと。

――今夜一応、二十時に二十分ぐらい、電話する。大丈夫? 時間帯そこでベスト?
「はい、お待ちしてます」
四分が終わり、奈々瀬はスマホの電源を切って、教室に戻った。
動悸が止まらなくなった。

電話を切った高橋は、名古屋での自分のチームの仕事に明朝早くから入り、変則的な時間に切り上げられるよう、準備を整えた。
ほかにも、名古屋-松本往復五時間に車中でできそうなことを、すべてピックアップした。


宮垣に初診の予約を入れた。


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もくろみ・目次・登場人物紹介


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!