見出し画像

「不安」の正体とは? お金を「金額」ではなく、「時間軸」で捉える。

エシカル消費、という言葉をご存知でしょうか?

とても簡単にいうと、人権や環境などに配慮した、
世の中にいい商品を買うという消費スタイルのことです。

なぜわざわざ名前をつけてまで取り上げるかと言えば、
それは人権や環境への配慮の結果、
商品の価格が高くなってしまうから、なんですよね。

そうなると、経済的な余裕がない人は蚊帳の外になってしまいます。
その結果「エシカル消費なんて、所詮金持ちの道楽だよね〜」という
ニヒリズムに到達してしまう。

このような思考回路が、現代社会が山ほど課題を抱えながらも、
どうしても解決への一歩を踏み出せない
原因のひとつなのだと思っています。

この構造的な問題は、エシカル消費だけでなく、
脱炭素社会の実現のための消費者負担、なんていう場面でも
同じような状況を作り出しているんですね。

面倒臭いかもしれませんが、できるだけ面白く書くので、
今日はちょっとだけ、一緒に考えてみてください。

消費者調査などを調べてみると、
エシカルな消費のために、どれくらいまでならお金を出せますか?
なんていう数字が出ています。

面白いのは、この数字からはだいたいの人が
「出したくない」と思っており、
それは年収などに関係なくみて取れる、ということなんですね。

こういう現象から私はこんなことを思うのです。

お金持ちも、そうでない人も、自分の「今の収入」から導き出された
「今のくらし」をしているわけです。
追加の経済負担というのは、そういう中に全員に平等に降りかかるわけで、
誰にとっても同じくらい「嫌なもの」なんですね。

では、仮に「どれくらい今より収入が増えればOKですか?」と
聞いたとします。

これは私の推測ですが、
この質問に仮の金額を答える人はいるかもしれないけれど、
その数字は甚だ現実味のないもので、おそらくそれが実現されたとしても、
人々の意識は今と変わらないのではないでしょうかね。

「払いたくない」となると思います。

なぜなら、収入というのは一気にではなく徐々に増えるものだし、
増えれば増えただけ、また生活の中で必要なものも増えるからです。

省エネ家電を開発すればするほど、
なぜか使用電力量があがってしまうのと同じことです。

だから自分以外のものに考慮した経済負担は、
いつまでも「負担」でありつづける。

そう思うのです。

そこにはこんな二つの要素があるんじゃないでしょうか。
ひとつは「他者を思う余裕」と「お金と時間軸」です。
説明してみます。

まず、このエシカル消費ですが、私が思うにはやっぱり、
「いいものだから」「便利な商品だから」という経済合理性だけで
人々を動かすのは難しいと思うんですね。

そこに「思いやり」という気持ちの要素が必要になるということです。
「エシカル消費=思いやり消費」というのが真実だと思います。

では、「思いやり」とはなんなのか。
それは自分ではない存在のことに思いを馳せるという力です。
対象が人間の場合もあれば動物や自然、地球の場合もありますね。
そういう意味で「自分以外の存在」に対する想像力です。

で、これは、おそらく、自分自身への脅威を克服した先に、
芽生えることのできる感覚なのではないかな?と思うのです。

それは現代社会においては「経済的不安の解消」と
ニアリーイコールなわけですが、厳密なイコールではないのです。

ニアリーイコールである、という認識が重要です。
なぜなら、多くの人がここを「イコール」だと思っているから。

そうなると、
「経済的な不安を解消できれば、他者のことを考える余裕ができる」と
結論づけてしまう、というミスを生むんです。

他者を思いやるために本当に必要なのは
「経済的な余裕」ではなく、「心の余裕」です。

もちろん、その「心の余裕」を毀損しているのが
経済的な苦しさなのだから、
「経済的な不安を解消する」ことは重要です。

でも、お金を手にすれば、他者を思う心の余裕ができるのか?というと、
そこがちがうんですね。
お金を手にしたとしても残る心の不安に着目しなければいけません。

そこを理解しない限り、
本当に不安がない、とはどういう状況を実現することなのか?までを
克明にイメージできないと思うのです。

エーリッヒ・フロムが1941年に書いた「自由からの逃走」に、
人間の精神的な孤独を生んだものは
資本主義であったことが書かれています。

私もその通りだと思うんですね。
資本主義という仕組みは、地域社会のしがらみに関係なく、
お金を稼ぎさえすれば、誰にでもチャンスがある、
といういい面もあるわけですが、所得や収入、富というモノサシを
我々の暮らしの隅々まで植え付けることで、
我々市民の間に微妙な空気を生み出したんです。

お金というモノサシに様々な価値観を紐づけ、
人間関係をそこに依拠するようになっていくことで、
人はどんどん孤独と不安に苛まれるようになっていった。

当たり前ですね。

すべての人はお金を取り合うライバルになるのですから。
あの人よりもっと多くのお金を稼ごう、と思えば、
その人と真に結ぶことはできません。

これは、実はお金のない人だけでなくて、
むしろお金をたくさん持っている人にも言えるのです。

お金がない人は当然、不安でしょうが、
お金がある人はある人で、そのお金は偶然、今、あるだけで、
いつ失ってしまうものかわからない、という不安がつきまとうのです。

これが資本主義の及ぼす不安の正体です。

つまり「先が見えない」という不安だということです。
これが収入に関係なく生まれます。
あえて言えば、どのように収入が約束されているか、ということが
安心感の根源であるということなのです。

話をエシカル消費に戻してみましょう。
他者への思いやり消費のために、どれくら今よりお金を負担できますか?

そういう問いが立てられたとき、
自分の収入が今より増えれば許容できる、とは、
多くの人は思わないでしょう。
なぜなら、その収入増が、たった一度の偶然で起きたものなら、
人はやはりそのお金をもしもに備えて貯めておきたいでしょうから。

これは政府が小出しにやる数万円程度の給付金でも
同じことが言えますね。

人の心理を読めない大臣などは
「消費に使われず、貯金になってしまった」なんて言いますが、
当たり前のことです。
我々は時間の流れの中で生きているのですから、
数万円をスポット的に貰えても、そのお金の意味を
「今まで」と「これから」という時間の流れの中で解釈します。

「貰えたから使う」なんていう単細胞な行動はなかなか起きない。
バカじゃないんですからね。
そこには「これから」の時間への不安があるのです。

そうです。

お金は時間軸という問題と一緒に考えなければ、
本当の姿が見えないのです。

経済的な安心というのは、
「これからもずっとそうである」と思えることから生まれるのです。
そういう意味では年収が10億円あったとしても、
それがずっとつづくと思えなければ、
人はその金を抱えて決して他者には渡しません。

だって人は心に支配されているのですから。

そう考えると、エシカル消費でもいいですし、
脱炭素への負担でもいいのですが、
人間が、自分以外の存在のことを考慮・配慮した
消費行動をできるようになるには、
時間軸的な安心感というものがその前提になる、ということがわかります。

今、私たちの社会が抱える課題は、
資本主義が導いた他者を思わない心によって引き起こされたものです。

そこから脱するのにいちばん必要なのは、
我々自身の心の平穏をまず獲得することで、

現代社会においてはそれは経済的不安の解消と直結していますが、
それはただ一度、お金を給付すれば解決する、ということではなく、
我々が生きるこの経済社会が、
これからどのようなものになっていくのか、
どのように私たちの暮らしを守ってくれるのか、という
ロードマップが必要だ、ということなんですね。

時間軸があって、初めて本当の安心になるのです。

思えば、この日本が30年もデフレでありつづけることも、
安倍政権が異次元の金融緩和をしても、
誰も銀行にお金を借りに行かなかったことも、
すべて、「先が見えないから」です。

お金というものを「時間軸」の上にのせて考える。

そういう発想が、経済政策面で必要とされることであり、
それを難しくさせている根拠が、「資本主義」という仕組みなんですね。

400年以上つづいてきた資本主義は、
もうすぐ終わると確信しています。

地球という有限な場所において、そもそも持続不可能な仕組みだからで、
終わることの方が必然なのです。

もちろん、だから共産主義になる、という単純な二元論ではありません。
お金と人間の関係の見直しが必要になる、ということです。


例えば、1000年というときの流れを想像してみてください。

今から1000年前は1021年ですね。
人は生きていたし、文化もありました。

問題は、その頃あったもので、今もあるものって何ですか?という話です。

そのころ、まだ資本主義はなかったし、
宗教くらいしかないのではないでしょうかね?

1000年後は西暦3021年です。
果てしなく遠い未来に見えても、1000年前と比較すれば、
少し現実味ありますよね?

そのときまで資本主義がつづいていると思いますか?
グーグルやアップルがあると思いますか?

そう考えると、「いつかは終わるな」と素直に思えるはずです。
いつ、どんなふうに終わると思いますか?
想像してみてください。

我々が必死にしがみついているものなんて、
そんなものなんですよ。

資本主義の終わりは、近いと思います。
今の社会を見回してみると、どこに幸せに笑っている人がいますか?

そうすると、資本主義の終わりは、きっと近い将来だと思いませんか?
だって、我々が苦しいことを、我々自身がつづける理由はないのですから。

人間は、誰かに頼まれて資本主義を毎日やってるわけじゃないのです。

・・・よね?

その次がどんな時代になるのか。
今はまだ誰にもわかりませんが、
それを作るのは我々自身だ、ということは確かです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?