人が死ぬということの、もうひとつの意味

先日、車椅子の天才、ホーキング博士の最後の著書、
「ビッグ・クエスチョン<人類の難問>に答えよう」を読みました。

そして知の巨人と言われた思索家の立花隆さん没後1周年で放送された
NHKスペシャル「見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」
を観ました。

そして考えたのです。
人が死ぬということの意味は、一体何なのかと。

人の「死」には、たくさんの側面があります。
死ぬ本人にとっての「死」もあれば、残された人から見た「死」もある。
余命を告げられた「死」もあれば、
予想もせずに突然やってくる「死」もある。

人はなぜこれほど死を恐れるのか。
すべての生きとし生きるものが、絶対に避けることができない現象なのに。
すべての生きとし生きるものが、摂理として受け入れているものなのに。
なぜ人間にとって死は、これほどまでに避けるべきことなのか。

それは恐らく、人間だけに「意識」が存在してしまったからでしょう。
人間だけに言語が存在し、死を定義したり、死を想像する力を
手に入れてしまったからでしょう。

アフリカのサバンナでは、今日も肉食獣が生きるために他の動物を狩り、
それを食べています。
それをそのまま人間社会の中に置き換えたら、
恐らく多くの人がPTSDになってしまうでしょう。

けれども、なぜ動物は心を病むこともなく、
平気で今日もサバンナで暮らしているのか。

動物たちには個別の意識がなく、或いは死を想像する力がなく、
また、この自然を回していくには個体の死が必要不可欠であることを
生まれながらに知っているからではないでしょうか。

死は個体の体が動的平衡を失い、肉体が朽ちて土に還る現象です。
地球に還るといってもいいでしょう。
そして肉体を構成していた分子は他の生物によって分解され、
他の生命の一部になっていく。
死は必要なのです。誰も、何も死ななかったら、
その生命は維持できないし、新しい生命も生まれない。

地球というひとつの巨大な有機体の上で繰り広げられる
壮大な分子の循環の中に、私たちすべての生命は存在しているのです。

その死の意味は、人間とて同じことなのです。

近年の日本では死んだら荼毘に付されます。火葬されるということですね。
焼かれてしまうと亡骸は骨だけになってしまうのでわかりにくいですが、
肉体の部分は消えてなくなったのではなくて、
エネルギーとCO2などになって、この地球には存在しています。

地球に還ったのです。

イメージするために、土葬で考えましょう。
亡骸は時間をかけて土に戻っていきます。
その人を構成するどの細胞も、すべて分解され、地球に還ります。

脳細胞も同じです。

たとえ生前どんなに優れた知能を持っていた脳でも、
どんなに知恵と知性を蓄積した脳でも、
死んだあとは自然の力で朽ちていき、分解されて地球に還る。

その点において、すべての生命は平等なのです。
アインシュタインの脳は今でも保存されていますがね。

ホーキング博士の脳も、立花隆氏の脳も、
本人の命の炎が消えたとき、その内部に格納されていたすべての価値は、
この地球上から永遠に失われるのです。

それが「人の死」が持つひとつの意味です。

人が何を考えているのか。
ひとりにひとつ、全員が持っているその脳に、
いったいどんな情報が格納されているのか。

それは本人にでさえ確認できないことでしょう。
人の脳の中のデータをすべて引き出して、保存しておくことはできません。

できることといえば言葉にして脳の外にアウトプットし、
それを書物や録音など、
なんらかの形でメディアに記録して残すことだけです。
しかし、言葉にするということは、それだけでかなりのスキルが必要だし、
その言葉遣いのセンスによって他の人の中に
どれだけ響くかも変わってしまいます。

恐らく、人間が自分の脳の中に入っていることを
すべて言葉にして吐き出すことは不可能でしょう。

脳の中に存在するひとつひとつのデータは混沌としていて、
それを体系立ててまとめることには大きな知力が必要です。
人に伝えられる形にする、というのは、なかなかに難しい。

私が特に現代という時代に必要な力は「思索力」というもので、
その第一人者が立花隆さんだと思っていました。

思索とは、様々な専門家の話をとことん聞き、その内容を把握し、
しかもそれをたくさんの分野に対して行った上で、
それらが本質的に何を表しているのか、という意味について、
自分の頭の中でまとめていく作業です。

専門知識を組み替え、新しい価値に仕立て直す
知的なプロデュース能力と言えるでしょう。

答えのない問いに向き合わなければならないVUCAの時代には、
どのような問いを立てることができるか、という力こそが、
ソリューションを導き出す原石になります。

この原石を見つけ出せさえすれば、
解決策は見つかったも同じようなものです。
最終解決は無理だとしても、踏み出すべき第一歩はわかるでしょう。

そういう意味で、宇宙や、サルや、癌や、人の死など、
様々な分野に対して興味を持ち、とことん専門知識を仕入れ、
それを粉砕し再構築するという作業は、立花隆という天才の脳の中で
個別に、属人的に行われていたことであって、
それは生まれてから死ぬまでの彼の生き方そのものなのであり、
他者が簡単に真似ができるものではありません。

そして、例えば立花隆という個体の脳が
永遠に電源オフになるということは、
その中に入っていた智を人類は二度とアウトプットできない、
という意味なんですね。

もちろん、ホーキング博士も同じです。
彼がブラックホールについて、宇宙の起源について、
最終的にいったいどこまで深めていたのか、
それは誰にもわかりません。そしてもう二度と確かめることもできません。

彼らの脳は他の人のものと同じように分子レベルに分解され、
二度と同じ脳にはならないのです。

ホーキング博士の脳であるという使命を終えて、
動的平衡を維持するというミッションを終了し、
壮大な分子のうねりの中に、還って行ったのです。

生前の立花隆さんは、自分が死んだら、
亡骸は生ゴミと一緒に捨ててくれと言っていたそうです。
恐らく、本気でそう思っていたのではないでしょうか。

人間の肉体というものが持つ本質的な意味を理解していた
立花さんらしい言葉だと思います。

親族の方はさすがにこの言葉をそのままは守らず、
しかし霊園の大樹の下に埋葬したそうです。

とても素晴らしい葬り方だと思ってしまいました。
死んだら人は土に還り、次の命の動的平衡の維持に加わります。
それがいっときでもこの大樹の一部になるのであれば、
残された人は、その人が本当に地球に戻ったのだと感じられるでしょう。

我々は広大な宇宙に偶然存在する分子の塊の中で、
偶然にも意識というものを持ったのです。
意識を持ったから、自分を認識し、他人を認識し、
宇宙を認識できるようになった。

神や、お金という空想のものを信じ、
分や秒という単位をつけることによって流れる時間を可視化し、
それに基づいて暮らしを営むようになった。

そういう分子の塊なのですよね。

誰もがやっていることでしょうが、
私も、自分なりに様々なことの脳にインプットし、
それを自分なりに脳の中で咀嚼しています。

それを言葉にしてアウトプットする以外、
私の意識の存在をこの世に残す方法はないし、
それを他者に伝える方法もないのです。

人間は自分という入れ物の中では自由ですが、
その中に閉じ込められていると言うこともできます。

そして、アスリートなどは動作も含まれますが、
基本的には思考と言葉だけが、
それを自分の外にアウトプットする手段なのです。

これからも、たとえ独りよがりになったとしても、
可能な限りたくさん考え、それを言葉にしてアウトプットしていこうと
おもうに至りました。

それが生きている証かも知れないからです。

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