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「なぜ君」と「香川1区」の本当の意味。

日本では、選挙のときの投票率がとても低いですね。
そのことは、ずっと問題視されながら、
まったく解決の兆しはありません。

当たり前ですよね。

投票しない当の有権者自身が、
投票率の低さを本気で問題視するはずはないのですから。

民主主義の政治というのはとてもユニークな構造をしています。
政治家と有権者の関係は、
市場のような生産者と消費者の関係ではありません。
すべての政治家は選挙を通じて有権者が選んでいるからです。

その政治家のなすことの影響を有権者は生活者として受けるわけですから、どんなに酷い悪政も、
元はと言えばその人を政治家として選んだ有権者が原因なわけです。

すべての出発点はいつも我々、有権者の側にあるはずなのに、
投票率の低さを政治のせいにするのは、
実は論理としては破綻しているんですね。

自分のなすべきことを他人のせいにしている。

そのことに、当の有権者が気づいていない、
というところが、この問題の構造なんだと思います。



選挙のときの投票率を上げるために
いったいどんなことをすればいいのか?

そのボールは、我々、有権者の側にあるので、
私はなんとか知恵を絞ってその方法を考えたいと思っています。

実際の選挙が始まったときに
「投票しましょう」という呼びかけがあります。
もちろん、選挙のそのときにやれることはもはやそれだけでしょうから、
無駄ではありません。

しかし、呼びかけることは
投票率アップのための本質的な方法ではないはずです。

選挙というのは、スポーツで言えば試合です。
楽器演奏で言えば、発表会でしょう。
その本番に臨むにあたり、練習をしない人はいないはずです。

日々の練習の成果が問われるのが試合であり、発表会ですよね。

それは選挙や投票でも同じで、大切なのは日々の練習の方なのです。
選挙における日々の練習とは、いつも日常的に政治に関心を持ち、考え、
話し合うという心構えや行動のことです。

そのような環境を作り上げれば、
投票率は自動的に上がるはずですよね。

では、どうすればいいのか?
考えてみます。



これは学校の勉強などでよく言われることですが、
なぜ覚えられないのか、身につかないのか、というと、
関心もないのに、ただ知識を記憶しろと言われるからなんですね。

関心を持つ。別の言い方をすると自分ごとにする、ということができると、
人は言われなくても自分で考え、行動するようになります。

では、そのきっかけは何でしょうか。

恐らく、「気づくこと」です。
なぜそうなのか?という疑問に気づく。
あるいは、なぜそうなのか?という課題に気づく。
すると、原因が知りたくなる。

知りたくなるサイクルの最初のスイッチは、
恐らく「気づくこと」「気づいてしまうこと」で、
気づくきっかけのために必要なのは、知識や情報ではありません。

「物語」です。

いったいそれは、何がどうなるという物語なのか。
その物語が面白ければ、自然にもっと知りたくなるし、
その物語の中に入っている知識や情報だから、覚えることができるんです。

逆に言えば、
いかに物語にすることができるか、ということが、
無関心層を動かすヒミツだと言えるのかもしれません。



スポーツをネタにしたアニメやドラマが流行することで、
その競技そのものが流行るという現象があります。

「柔道一直線」と柔道。
「アタックNo.1」とバレーボール。
「エースをねらえ!」とテニス。
「スクールウォーズ」とラグビー。
「キャプテン翼」とサッカー。

このようにアニメやドラマが
競技そのものの人気に火をつけた例はたくさんありますが、
それは感情移入できる物語、楽しめる物語が先にあったからです。

物語の要素として、その競技があるから、
競技について詳しくなったりする。

ジャマイカのボブスレーチームをテーマにした
映画「クールランニング」のおかげで、
今でも冬季五輪のボブスレー競技のときに
ジャマイカチームが登場すると観客は特別な歓声を上げます。

スポーツだけではありません。

映画「フラガール」を観た人が、
福島県いわき市にあるスパリゾートハワイアンズで
本物のフラガールのショーを観て涙するという光景を
私自身何度も見てきました。

最近の例ではフレディ・マーキュリーとクィーンを描いた
「ボヘミアン・ラプソディ」も。

あの映画の場合、
もう一度クィーンの楽曲が聴かれるきっかけになりましたが、
それは「解釈のし直し」が起きたのだと思います。

フレディという人間の気持ちが曲と同化していることを
改めて知るという体験ですね。
曲の裏側にあった物語の存在に気づいたわけです。

この「物語・ストーリー」と「実物」の関係性というのが、
非常に重要なのだと思います。

実物だけ見ていたときには知らなかった物語。
それを知ることによって、実物が背負う背景、事象の全体像を共有する。
そして、実物の見え方が今までとちがうものになる。

そんなことです。

もともとはその事象そのものに興味関心がなかった人が、
別のことを目的に、ここでは映画やドラマという
娯楽を目的に観たものから、その実態に興味を移していく。

そのような作用は確実に存在していると思うんですね。



ここで、去年、一昨年に公開された2本の映画のことをお話しします。

ひとつは「なぜ君は総理大臣になれないのか」。

大島新(おおしまあらた)監督が
香川1区という選挙区から国会議員に立候補した小川淳也さんと言う人物を
17年間にわたって追いかけたドキュメンタリー映画です。

香川1区は初代デジタル大臣にもなった
平井卓也さんという自民党議員のお膝元の選挙区です。

彼はテレビ局や新聞社や学校、美術館などを持つ
地元の名手のご一家で、とにかく地盤が強固。

映画は、そんな平井氏に挑戦する
庶民派・小川淳也さんの姿を追いかけています。

17年も一人の人物を追い続けたことは偶然の産物でもありますが、
そのことで、小川淳也という人物が持つ、
それまで決してオモテには出てくることのなかった物語が
初めて衆目に晒されることになったわけです。

選挙というと、なんだか五月蝿いし騒がしいし、面倒臭い。
できれば関わりたくない。

そんな印象を多くの方が持っていますよね。

でも、そのとき街宣車の上に立ってマイクを握っている
一人一人の候補者には、実は途方もない物語が存在している。

その一端を、「なぜ君は」は垣間見せたのです。

もちろん、誰もが映画の題材になるほどのインパクトの強さや
特異性を持っているかはわかりませんが、
小川淳也さんという人物がどんな人物で、
どんな思いや意志を抱いて活動しているのか、ということが、
それまで絶対に見ることのできない人にまで開示された。

この映画がやったことは、そういうことだと思うんですね。

そして、小川淳也と言う個人と、
彼を取り巻く周りの人々の物語が多くの人に共有された状態で、
昨年10月の衆院選は展開されたわけです。

選挙の結果、小川淳也さんは平井氏に初めて完勝
(それまでいちど勝ったことはありました)。

この勝利に「なぜ君」が作用したことはまちがいないと私は思っています。

しかしそれは、この映画が、
続編として後に公開された「香川1区」の中で、
ライバル平井卓也氏が語っていたような
いわゆる「PR映画」だったからではないでしょう。

「PR映画」ではないからこそ、結果論としての「PR効果」はあった。

そう思います。

ただ、それは今まで伝わっていなかった本質の部分が伝わったからであり、
映画がありもしない虚構を作り出した、という意味ではありません。

判断や評価は、観た人に任せられています。
そしてその結果が、選挙の結果にも現れたのでしょう。



東北の震災のあと、
「東北食べる通信」というサービスを始めた方がいました。

これは東北の農産物や海産物を消費して
被災地を応援しようという目的でしたが、その方法がユニークでした。

サブスクのカタチになっていて、
毎月、発送側が選んだ特定の農産物や海産物が届きます。
そしてそこには、実物と一緒になって、
その農産物や海産物がどんな人によって、どんな思いで作られたのか、
というストーリー、物語を綴った冊子がついてくるのです。

物語は、目の前にあるトマトやホタテに、価値を与えます。
知ることによって、それはただの食べ物以上の意味を持つようになります。

物語を共有した人は、消費者ではなく、
生産と消費のサイクルを維持する参加者、当事者になっていきます。

同様の効果が香川でも起きた。

「なぜ君」が小川淳也という人物に
物語があることを皆に伝えたのですね。

小川淳也に一候補者以上の意味を与え、
それに呼応して有権者は動いたのです。

関心が高まり、自分ごとになり、
当事者であることに気づいたからですね。

まさに実物と物語の関係性です。

そして、「なぜ君」という物語と小川淳也さんという実物の関係性が、
次の選挙の勝利を呼んだという、
その一連の流れを記録した続編映画「香川1区」と、
実在する選挙区である香川1区は、
我々に新しいストーリーへの想像力の喚起を要請していると思うのです。

選挙の投票率を上げる方法として、
何かのヒントがここに隠されている気がしています。



私の母も歴史が大好きなのですが、歴史好きな人というのは、
歴史をまるで小説のような人間ドラマとしてのダイナミクスを持って
ストーリーで解釈しています。
だからこそ、たくさんの知識を記憶しているんですね。

歴史学者や考古学者などもそうでしょう。

知識では伝わらないことは、物語にする。
そこがポイントだと思います。

そのとき、物語のスタイルはいろいろだと思います。

何もかも映画にしなければいけないわけではないし、
ドラマもあれば映像と活字でもちがうし、トーンも様々でしょう。
しかし、物語にすることは重要です。

あとは、その物語がどうすれば人目につく場所に置けるか。

「なぜ君」はドキュメンタリー映画でした。
映画はテレビとはちがいます。
お金を払ってわざわざ観に行くものです。

でも、お金を払えば、一定期間はいつでも観ることができる。何度でも。

テレビで放送されるドキュメンタリーにも
良質なものはたくさんありますが、
とにかく誰も観ないですよね。目に止まらないのです。

もちろん、そもそもそのイシューに関心のある人にとっては、
テレビはとても有難いものです。
が、どんなにいい作品でも、存在が気づかれにくい。

基本的には一度しか放送されませんから、
放送を逃してしまえば、無かったことと同じように消えてしまいます。

しかしテレビにも利点はあって、それは偶然の出会いがあることです。
本をAmazonで買うのではなく、書店で買うようにすると、
目的以外の本との偶然の出会いがあります。

それと似ていて、テレビは時間の流れに乗せて
勝手に情報を送ってきてくれますから、
偶然、つけっぱなしにしておいたテレビから、
気になる番組が始まった、という経験は誰にでもあるでしょう。

それと、タレントさんを起用するなどのエンターテイメント性や
事前情報としての話題性を上げることで、
無関心の人の目に触れさせられる可能性は上げることができます。

これらがテレビの欠点であり、利点ですね。

メディアごとに、得手不得手はちがいます。
そのこともアタマに入れながら、どうすれば物語にすることができ、
その物語を手に取れる場所に置けるか、ということを
ターゲットにあわせて考えていくといいのでしょう。

「なぜ君」と「香川1区」のちがいは、
個人の物語と、
その物語を知った有権者たちが作り出した選挙区の物語、
というちがいです。

いま、「香川1区」を観た我々は、
この物語をどのように昇華すればいいのでしょうか。

物語はつづいています。

選挙区で勝った小川淳也さんは
立憲民主党の代表選に挑戦し、敗れました。

しかし、党の政調会長となって、今も国会で活躍し、
映画の中で描かれていた有権者との「対話集会」は、
リアルやリモートと、ときどきでスタイルを変えながら、
今も続いています。

物語はつづいているのです。

そして、我々こそが、次の物語の当事者なのだと思います。

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