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アメリカ留学と映画「バビロン」

刺激的で官能的、まるで夢を見ているよう。けど夢はいつか終わる。夢(のような時間)の終わりはいつだって誰にとってでも辛く手放したくないものだ。映画「バビロン」を見てそう思った。

1920年代の映画のトーキー化(無声映画から映像に音声が付けられた映画への変化)していくハリウッドを舞台に描かれる「バビロン」。そこで描かれる人々はそれぞれが皆、「映画」という夢の世界に憧れ、翻弄され、生き、そしてその夢が終わっていく様であった。最後に夢に憧れ、夢に生き、夢の終わりを経験したのはいつだろうか。ふと思った。そしてそれは自分にとって留学そのものであった。恐ろしくリアリティを持った夢は覚めた後もその吐息を感じられることと同じくらい、否、それ以上に留学生活の一瞬一瞬を覚えている。まるで昨日の朝アメリカに降り立ち、今朝朝一のフライトで帰ってきたかのように鮮明に覚えている。

帰国からちょうど2ヶ月が経過しようとしている今、自分の留学生活について振り返ってみようかな、と思い、ブックマークバーで半年ほど息を潜めていた「note」の文字にカーソルを合わせ、指をそっとキーボードの上に置き、あとは思うがままに両手を動かしている次第である。

憧れ

留学、ひいては英語と言う言語にあこがれを抱いたのは忘れもしない10歳の10月だった。当時、市の国際友好親善協会の役員をしていた祖父に定員割れしているから、と半ば強制的に姉妹都市である中国の深圳市に送られたことがキッカケだった。深圳市は今でこそiPhone工場や電脳都市と呼ばれるほどの世界的な大都市だが当時はそんな面影もなく、香港の隣の都市、香港自治区と中国領土の境目の町と言う印象だったことを覚えている。
そこで出会った中国人の同級生たちがスラスラと英語を喋る姿に衝撃を受けた。中国語には惹かれず、英語に惹かれた。その理由は分からないが、

カッコイイ。

そう思い、日本帰国後すぐさま英語教室に通い始めた。祖父母らによると中国帰国後小学校6年生のころには「大学生になったら英語を話す国に留学に行く」と言っていたらしい。どこで大学生と留学が結びついたのかは今となっては不明だが、とにかく小学校五年生がターニングポイントだったことは間違いない。
その後、中学校一年生の時にニュージーランドに3週間ホームステイに行くが、英語学習歴3年の12歳にはレベルが高かった。ゲームで初期装備に毛が生えたほどの装備でラスボスに挑むようなものだった。それから月日が経ち、高校三年生の終わりのころには映画は字幕が無くてもついて行けるほどになった。英語の外部試験でセンター試験の英語は満点になる大学のみ出願する予定だったのでセンター試験会場で英語の試験時間の半分以上ねていた記憶すらある。

無事金沢大学に合格し、お世話になっていた英語教室でアルバイトを始める。受付事務業務と英検の講師を担当していた。留学先の卒業生の先生と仲が良くなり、留学先をネバダ大学リノ校に定めた。その他にも、特に大学期間中に留学に生きたいと思わせるようなイベントが複数あった。それに、自分は今23歳である。他人になんで留学に行きたいの?行ったの?と聞かれてもそれなりに相手にもそういう目的で行ったのかと論理的に説明できる力は備え付けているつもりだが、やはり13年前の自分の「行きたい!」と思ったその情熱が何よりの原体験であるし、もう13年も前だからその思考にたどり着いた流れを解明することは宇宙の真理を解明することと同じくらい難しい。
しかし、そう考えると自分は留学という一種の夢を13年間も追い続けてきたのである。その期間が、その時間が夢である留学をより特別な存在に作り替えたのだろうと推測している。だからこそ、2022年1月8日土曜日、成田空港第一ターミナル34番ゲート、午後17時30分発ユナイテッド航空33便に搭乗するときの胸の高鳴りは今でも忘れられないし、特別に感じたのだろう。

翻弄

前章では出発まで順風満帆だったかのように綴ったが、実際はそんなことも無かった。結局、留学という夢に翻弄された。

本来であれば2020年夏から留学に行く予定だったため、それに合わせて様々なことを準備していた。当時のアルバイト先にも2020年6月末で辞める旨を伝えていたし、他にも一つ当時立上に関わっていたプロジェクトがあったのだが、区切りがいいな、ということで2019年末に身を引いていた。今思うと、「留学」が自分の中心に存在していて留学が全ての判断軸になっていたのだろうな、と思う。
しかし、COVID-19によってその全てが無に帰した。僕が所属している学科は学年の8割が留学に行くような環境で、「留学に行けないかもしれない」というくらい雰囲気が立ち込めた。毎日留学を○○が辞退したという情報と、留学辞めようと思ってるんだけどさ…という相談が毎日ラインに流れ込んできた。大学側からいつ行けるか分からない、留年と言う選択肢を選んでもらう可能性もある、と説明されていた。

それでもなお、僕の意志は固かった。確定ではないが、留学候補者で一番最初に留学に行く、という返事を提出したのは僕だっただろう。メールで案内が来て、その1時間後には全ての書類に署名を行い返送していた。
結果として留学に行くことが出来たわけだが、その代償として留学前後にそれぞれ1度ずつ留年をすることになった。受け取る予定だった奨学金の支給要件に「休学・留年を留学前に行っていないこと」という但し書きがあった。留学前に一度留年することになったので、僕は奨学金を貰えない。完全に自費で留学することがこの時点で確定した。奨学金受給資格がないと分かったのは2021年の6月ごろだった。それからはお金を少しでも手に入れるためコンビニの深夜バイトをずっとしていた。
深夜1時から朝の6時・7時ごろまでコンビニバイト、家に帰って5時間程寝て、午後1時から午後6時ごろまでインターン、その後午後7時から午後9時まで英語教室でバイト、クルマの中などから学生団体のミーティングに出席して、少し仮眠をとってコンビニへ。
こんな生活を留学前半年ほど行った。今思うと、かなり身体的にも精神的にも酷使していたと思う。

それほどまでに留学は自分にとっては憧れだった。だからこそ、その夢の実現のために翻弄された。

実現、夢に生きる

2022年1月8日土曜日、成田空港第一ターミナル34番ゲート、午後17時30分発ユナイテッド航空33便搭乗。そこまでの道のりは長く険しいものだったが、そこからはあっという間だった。ものすごく刺激的で面白い映画を観ているようだった。

毎日やらなければならないこと・やりたかったことをして、疲れて寝て。そんな日々だったように思う。思い返すと、あぁ無為に一日を過ごしたな、と後悔する日々は一日もなく、毎日が「普通じゃないこと」の連続だったように思える。しかし、夢にどっぷりと漬かりすぎているとまるでそれが夢ではなく日常のように感じられる。夢がいつの間にか日常になっていたことを実感したのは、留学生活開始から3か月が経過した頃だったように思える。夏休み前には毎朝起きた時に感じるような特別感や高揚感のようなものは(ほぼ完全に)消え失せていた。よく言えばアメリカでの生活に順応したと言うことが出来るが、それは同時に思い描いていた生活がいつの間にか追いかけるものではなくなっていたことも意味している。平たく言えば、「普通」になった。もちろん、だからといって生活から色が失われるわけではなく、先に言ったように毎日疲れて寝て、の繰り返しでガムシャラだったように思えるし、一切の後悔はしていない。(夏休みに限って言えば色々あったのだがここでは触れない)
夏休みのことを少しだけ語れば、夢が大きくなれば、その分代償も大きくなる、そんなところだろう。

終わり

何の変哲もない日常でも、それが失われた時に「かけがえのない」という修飾語が付き、誰もがそれを思い返すことと同じように夢の終わりも手放しがたいものだった。特に僕の場合は帰国1か月前くらいから全ての物事、例えば友人とドライブに行くだとかそういったことをする度にこれが最後かもしれないと思うようになった。いつの間にか何も感じなくなっていた日常を手放したくないと強く思うようになっていた。ドライブに行ってもこの道が住んでいるアパートに戻る道ではなくずっと続いていればいいのに、図書館で誰かと勉強していても図書館に閉館時間が無ければいいのに、とずっと思っていた。帰国日が迫ってくるのが怖い、という表現を使うと誇張しすぎかもしれないが、帰国日が迫ってくること、日付をまたぐことに対して嫌悪感があったのは事実。その表れか、当初予定していた帰国日は12月28日だったが、それから2週間も遅れた1月15日に帰国することになった。それほどまでに日常に溶け込んだ夢の終わりは自分にとって恐ろいモノだったのかもしれない。

留学が終わるなら死んでもいいなぁ、と本気で思っていた。しかし、それは決して否定的な意味ではなく、自身の留学生活において何ら後悔は無く、満足しているという意味である。とは分かっていながらも、帰国から2ヶ月が経った今でも留学生活中の写真や動画を見返したり、当時のGoogleカレンダーを見返したりしている。今月も一週間だけではあるがアメリカに渡航したりもした。それほどに手放したくない夢であり経験だった。

先に留学が終わったら死んでもいいと思ったと記したが、これからの人生もそういうことの積み重ねだろう。留学以外にもまだまだしたいことが沢山あるし、その全てにおいてもう死んでもいい!と思えたらそれほど幸せな人生はないだろう。否、そういう人生を歩んでいきたい。
ただ、留学という夢はあまりにも自分にとって実現までにかかった時間も労力も、失ったモノ(失ったとは思っていないが)も大きかったため、まだしばらくは懐古したり、留学が無い生活に順応するのには時間がかかりそうだ。

そんなことを感じさせてくれた映画バビロン。奇しくも映画の舞台は何度も何度も訪れたロサンゼルス。素晴らしい映画なので是非機会があれば見てほしい。


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