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大学のキリスト教サークルの活動に参加してみて思ったこと(前半)

こんにちは、tkです。
先日、友達に誘われてキリスト教サークルのご飯会に参加してきました。
そこで新しい世界を見たというか、色々と視野が広がったのと同時に、今まであまり意識してこなかった自分の日本人としてのアイデンティティーも強く感じた瞬間だったので記録として残しておきたいと思います。

長くなったので2部に分けました!2部の方でよりアイデンティティーだとか、私自身が感じた違和感と友情について話してます。

この記事ではキリスト教について触れますが、まだ全然勉強不足なので間違った知識を語っていたら申し訳ないです!


キリスト教サークルに参加していいの?

最初に、私はキリスト教徒ではないですが、キリスト教徒の友達に誘われてご飯会+ちょっとした聖書研究をしてきました。

まず、なぜキリスト教徒ではない私がサークルに参加していいかというと、そもそもキリスト教の教えの一つとして、キリスト教を信仰するものはイエス・キリストの教えを他者に広めていくべきであるというものがあるかららしいです。だから、私みたいに何の知識のない人でも快く受け入れて、キリストの教えを解くことがキリスト教徒としての使命とも言えます。

ちなみに、その布教自体を表す動詞もあって、Evangelizeというらしいです。全然知らない豆知識でした。

見たことないので分からないんですが、アニメの新世紀エヴァンゲリオンはそういう意味も含まれているんですかね。

キリスト教の教えとは?

キリスト教の教えとは、聖書に記されているイエス・キリストによる「するべきこと、してはいけないこと」を指します。キリスト教には「罪」という考え方があり、この「罪」とは、広く言えば「神の教えに背くこと」らしいです。

人間は生まれながらに罪を犯す存在であり、本来ならば完璧な存在である神と関係を持ってはいけない。
しかし、イエス・キリストが人間の罪を背負って十字架の上で死んだことによって、人間は罪を犯す存在であっても赦されるという考えがあります。

では、なぜキリスト教徒の人たちはこの教えに従うことを重要とするのか

ここで、キリスト教の「目的」や聖書全体の内容を端的に表す一文が聖書の中にあります。

"For God so loved the world, that he gave his only Son, that whoever believes in him should not perish but have eternal life."

John 3:16

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新共同訳聖書

この一文によると、神を信じたものは死後、神とともに天国で過ごすことができ、それが何よりも幸せをもたらすという考えがキリスト教の根底にあることが分かります。
つまり、キリスト教には宗教的なしきたりはひとつもなく、唯一守るべきであるのは「神を信じ、神の教えを信じる」ということ。
そうすれば、人間という不完全な存在でありながらも、完璧な存在である神との関係を保つことができ、死後も天国へ行くことができるという考えが中心にあります。

私はご飯会に参加するまでほぼキリスト教に関する知識は皆無だったんですが、聖書研究を通してこれらのことを一から教えてもらいました。
すごくすごく興味深かったです。

聖書研究とは?

英語で言うと Bible Studies ですが、聖書研究とは聖書の一部分を読み、それを通して読み取れる神の教えや人間の性格についてなど、何でも感じたとこを記録して共有する活動のことです。

ちなみに、聖書には新約聖書と旧約聖書があって、新約聖書はイエス・キリストの話、旧約聖書はイエス・キリスト以前の地球創造の話が書かれているらしいです。つまり、有名な「アダムとイブ」や「ノアの方舟」は旧約聖書の方の話になります。

6人ぐらいの小グループに分かれて、新約聖書の中のある章の一部分を読んで、それについて感じたことをみんなで話し合いました。ちょうど、イエス・キリストが死んだ後に墓場から蘇るという部分でした。

私は聖書の内容をほぼ把握していなかったので主に基本の流れを説明してもらうだけだったんですが、最後の方に「この章を通して神が伝えたい教えは何だと思う?」と聞かれて、どう答えればいいか分からなくて動悸がすごかったです笑。
でもグループの人たちはみんな優しくて、全然有益な意見は言えなかったですけど、すごく熱心に話を聞いてくれました。
あと、同じ文章でもそれぞれの人が自分の解釈を持っているところが聞いていて面白かったです。

何で参加したの?

では、そもそも何で私がこのサークル活動に参加しようと思ったのか。

まず、私が日々の生活ですごく大事にしていることの一つとして、出来るだけ偏見を持たずに人や物事と接したいという考えがあります。

何事も自分自身で体験しないと判断できないと思っているし、他人の考え方を理解するにはその人の思考に一回浸る必要があると思っています。

真実は一つじゃない
2つや3つでもない
真実は人の数だけあるんですよ
でも、事実は一つです

ミステリという勿れ

これは「ミステリという勿れ」という漫画で自分がすごく共感する言葉なんですが、「真実」はそれぞれの人からしか見えないからこそ、人の数だけ「真実」がある。

自分が絶対正しい、相手が悪だと思っていても、相手も実は全く同じことを思っているかもしれない。要するに、ほとんどの言い争いや意見の対立はそれぞれの人が自分の色眼鏡を通して見える「正義」に従っているだけで、自分の色眼鏡だけに頼って「あの人はこう考えているから悪者だ」と捉えるのは間違っていると思います。

歴史上の人物でも、ほとんどの人がただ「自分の正義」に従って行動をしただけじゃないでしょうか。

だからこそ、まずは一度相手の立場に立って相手を理解する。
それが達成できてからこそ、自分の意見が成り立つと考えています。

だから私は人の話は一生懸命聞くし、どうやっても理解できない、と思っている意見でも一度は理解しようと努力します。
そして、この対話を続ける努力を重ねることによって、今までは思いもしなかったような意見に出会えたり、むしろ自分がより共感する考え方に出会うことができたりして、毎回人間としての深みが増していくように思います。

というわけで、馴染みのないキリスト教について学べるせっかくのチャンスを逃すわけにはいかないと思って、このご飯会に参加しました。

日本におけるキリスト教、および宗教のイメージ

おそらく、日本でキリスト教と聞くと歴史上、キリスト教が禁止されるなど色々あったことも含め「少し怪しい」「カルトなんじゃないか」みたいなマイナスなイメージが強いと思います。

ぶっちゃけ、私も偏見は持たずにいたいと言いながらそのようなイメージが少しあって、もし万が一カルトだったら逃げる心の準備は万端でした(友達よ、ごめん笑)。
でも、そのサークルにいる人たちと関わっていくうちにそのイメージは完全に覆された気がします

というか、そもそもオーストラリアに来て何人かのキリスト教徒の友達ができた時からうっすら思っていたことではあるんですが、私が出会ったキリスト教徒の人たちは本当に一人残らず、全員優しさに溢れています
全然サークルとは関係ない、授業で仲良くなった子の一人もキリスト教徒で、その子は本当に物腰が柔らかくて誰にでも分け隔てなく話す姿勢がすごく素敵だなーとよく感じます。

やっぱり、「隣人愛」を説くキリスト教だからこそ、その教えに従っている人たちは誰でも温かく受け入れる雰囲気を持っていることが分かりました。

あと、すごく印象的だったのが、聖書研究をしているときに、聖書の流れやキリスト教の目的などを説明してくれていた友達の目がすごくウルウルしていたこと。

何というか、あぁ、これはこの人たちにとっては本当に大事なことなんだなということがすごく伝わってきました。

「神」という存在に対する敬意と愛が半端なく、そこにいる人々の信仰心の強さに圧倒されるばかりでした。

だからこそ、日本におけるキリスト教のイメージはすごく勿体無いなと今回の経験を通して強く感じました。彼らは心の中心に宗教が支えとしてあって、本当に周囲に対する敬意と愛に溢れています。

宗教に対して懐疑的な意見があるとしても、こんなにも多くの人を「より良い人間になろう」と思わせてくれるものがあるということは単純に素敵だと思います。
もちろん、それを逆手にとって悪事を働いている人は尚更ひどいと思うようにもなりました。

とにかく、機会がある人は、ぜひ他宗教の人の考え方や人生観を一度聞いてみてほしいです!すごく興味深い発見があると思います。

次に続く→

さて、長くなりそうなので2つに分けて note を書くことにしましたが、次の記事は多神教の日本の価値観で生まれ育った自分が一神教についてどう感じたか、そしてそれがどう友情と絡んでくるのか話したいと思います。すごく素敵な人たちと出会ったからこそ、その繋がりは宗教を通してでしか保つことができないのか、色々と考えました。

結果からいうと、私は日本の多神教がやっぱり腑に落ちるということを再確認しました。キリスト教について勉強しに来たのに、なぜか日本人としてのアイデンティティーをより強く実感することになったのが不思議です。

多大なる量のインプットを受けたので、一気にアウトプットした形になりました笑。

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